昨日ご紹介した「継桜王子社」の名称は「秀衡桜」に由来するそうです。
継桜は秀衡桜ともよばれ、奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡に因む次のような伝説が残っています。
「秀衡桜伝説」
藤原秀衡が熊野に詣でた際、山中で夫人が産気づき男児を出産しましたが、乳児を連れて参詣を続けるわけには行かず、熊野権現の夢のお告げを頼りに立願し、滝尻王子の裏手にある岩屋に赤子を残して参詣の旅を続けました。
しかし、野中のあたりに差し掛かったとき、やはり我が子のことが気になり、それまで使用していた桜の枝の杖を地面に突き刺し、置いてきた赤子が無事ならこの桜も育つだろう、それが叶わなければこの桜も枯れるだろうと祈り、旅を続けました。
帰路、ふたたび野中に着くと桜は育っており、喜んだ夫妻は道を急いで戻ると、赤子は山の狼たちに護られて無事に育っていました。
この子が後の和泉三朗忠衡です。(5月15日の当ブログ“乳岩”で簡記)
「秀衡桜」
秀衡桜(ひでひらざくら)は藤原秀衡が熊野詣の際に植えたと伝わるヤマザクラの4代目にあたるとされ、樹齢約150年で樹高約15m、幹回り3.2m、ありましたが、2011年11月1日朝、倒れているのが住民によって見つけられたそうです。
倒れた木は地元の森林組合が切断し、現在は切り株が残されていますが、その横に樹高8mに成長した5代目の秀衡桜が勢いよく育っています。
・切断された4代目の秀衡桜の株です。
・樹高8mに成長した5代目の秀衡桜です。
「虚子の句碑」
秀衡桜のそばに高浜虚子の次の句碑があります。
「鴬や御幸の輿もゆるめけん」
ウグイスが鳴いている。熊野詣の天皇も御輿を止めて聞き入ったであろう、その情景が浮かんでくるような句です。
「安部晴明腰かけ石」
秀衡桜から10分弱の民家の庭先に「安倍晴明(あべのせいめい)の腰掛け石」があります。
平安時代の陰陽道(おんみょうどう)の大家・安倍晴明が熊野を巡る途中でこの石に腰を下ろして休んでいるとき、上方の山が急に崩れそうになったが呪術(まじない)によって、崩壊を未然に防いだ伝えられています。
・これが安部晴明腰かけ石です。
世の中は、そんなものですが、ついに(その10)と らいちゃんに「歴史街道」⑨を抜かれてしまいました。(^^ゞ
「秀衡桜伝説」は、読みすごしてしまえば、伝説になった逸話をうなずくだけですが、よく考えると産み落とした
ばかりのわが児を道に無慈悲に放置していくはずはありません。
伝説になった成り行きの方に、興味をおぼえます。