ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

から元気

2011年02月24日 | これも自分あれも自分
から元気は だめですね

自分をごまかしてる


元気になった振りをしてばかりでは

どこかいびつな形で 反映される


心が正常に戻りますように

そう祈りながら


今日も 飲んでる


一人で 飲んでる


誰か~~~ きて~~~って

叫びたくなる


飲むと 麻痺して

悩みは どこかへ消えるのか?


いや 消えるどころか 増幅して

涙が 止まらない


でも 止まらぬ涙は 浄化の証

泣いて 泣いて 一人泣いて
泣いて 泣きつかれて眠るまで 泣いて
って

河島英五 か


ゆっくりと 聞いてくれる女子 募集中

そう。今夜は、天使様を呼んでも、眠れなかったんです ね。


モンテッソーリ教育

2011年02月23日 | 子ども
私の子どもたちには、モンテッソーリ教育と縦割り保育の幼稚園に通わせた。

モンテッソーリ教育というと、なんだかカタカナだし、教育って硬いし、

なにやらがんじがらめのような雰囲気?とか

お受験さながら、早期教育する感じ?とか

堅そうな雰囲気?という

思わずしり込みしてしまいそうな感じがします。


でも、知っている人から見たら、それはかなり真逆です。


私は、幼い頃から、決め付けられることが嫌でした。

みんなと一律に行動することが苦手でした。

遊びたいときは 遊ぶ

お絵かきしたいときは お絵かきしたい

でも、ここじゃなくて、あの場所を描きたい

自分は こうしたいのに 幼稚園も学校も

なかなか許してはくれませんでした


一律に行動しなければならないことも あります

勉強は、一斉に教えた方が効率的だし

そうあるべきだとも思います


でも、絵を描く時などは、自由に描かせてくれてもいいじゃない?

と思っている小学生でした


特に、幼ければ幼いほど、自由にしたいとか

自分の興味のあることを し続けたいという欲求が大きかったように思います


モンテッソーリが好きな理由は、実はそこにあります

子どもたちが、自分のやりたいことを選択して、取り組むことができる

だれもそれを否定しない

自分に没頭できる時間がある

それは 自分が選んだから没頭でき 集中力がつく


「子どもには敏感期があります」というのは、モンテッソーリの教育思想です。

興味のあること

自分の力でできること

少し頑張ればできそうなこと

それらは、自らの意識が欲する欲求

その欲求が出る時に それを実行することで 確立される

自信が生まれる

それが、子どもの敏感期なのです


「お手伝いしたい」とやたら言うときがありますよね

それがお手伝いの「敏感期」です

この時にお手伝いをさせてあげると 自分は認めてもらっていると思い

自信につながりますし

自ら欲する行動なので 集中して楽しむことができます

強制ではないのが、ミソです。


強制されると、人は集中できません

それは、子どもも大人も一緒です。

やりたいと思ったときに、それを行う

休みたいと思ったら、休める

別のことを探す


こうして、人は育つのだなぁ と思います

その敏感期を見極め、見守り、手助けしながら保育をしてくれる

モンテッソーリの教育者の先生たち

いつも、脱帽します

その姿勢と 凛とした自信に

あたたかくて やさしい まなざしに

子どもたちが 安心して 一日をすごすことができていること

いつも 感謝しています






大丈夫 大丈夫 大丈夫

2011年02月23日 | これも自分あれも自分
何か 心配なことがあると

心の中で 「大丈夫」を3回繰り返してみる

それで 大丈夫な時もあるけれど

まったく 大丈夫じゃない時もある


胸に手を当て

「大丈夫」って 言っているのに

鼓動は早くなるばかり


そんなときは

早く寝るに限ります


そして 最近覚えた私の呪文

それは 

嫌なこと 不安なこと 心配なこと 恐れ

それら ネガティブな感情を

イメージの中で 胸の真ん中に集めたら

イメージの中で 天使を呼んで

目の前に立つ天使様に

「はいっ」とネガティブさんを 丸ごと手渡すのです


すると

なんだか自然と ほっとして

眠れるのです


悩みすぎて 不安すぎて 眠れないときがあったら

一度 試してみてください


とても 居心地のいい朝を迎えることができます


今日は 天使様を 呼んでみよう

いつも 丸ごと受け止めてくれて ありがとう

持ち帰るときは きっととっても重いはず

感謝します


フラで 泣く

2011年02月23日 | これも自分あれも自分
こどもたち おとなたち

自分のこども以外の こどもも

子どもだったときが ある大人も

今 こうして生きている 人間が

いとおしい


一生懸命に 働き 悩み 苦しみ 楽しみ 動く 人間がまぶしい


先日の「八戸パフォーマンス劇場」では、

バトンの団体や、タップダンスや、ヒップホップ、ベリーダンス、

太極拳など、いろんなパフォーマーたちが、自分たちの練習の成果を

披露していて、素敵なステージばかりだった。


私は、席取りのために、早めに行き、一人で見ていた。


各ステージとも、素敵だった。

みんな輝いていて、キラキラしていて、その裏側の練習の大変さを

思って、惜しみない拍手をした。

自分も、昨年はリコーダーで披露する機会を得られ、

そのための練習を、必死でしていたので、気持ちが分かる。

あれだけ練習していても、本番ではその6割~7割しか発揮できないことを知っていた。

だから、みんなに笑顔と拍手とで、その努力をたたえたのだ。


フラダンスの披露もあった。

ハワイの風と匂いがした。

行きたいな~ハワイ。。。と思った。

年齢層は高いけれど、みな輝いていて、素敵だった。

フラの手の振りは、手話だという。

手の動きで、意味が違うという。

だからなのか? 私の中に、何かが沸々と沸いてきた。


美しい女性が何人もいた。

その中に、ふと、自分の実母に似た方が混じっていたのを見た。

病気をして痩せ細った実母よりも、ふっくらとして健康そうに見えた。

とても美しく、凛とした感じが、母にそっくりだった。


「ああ、ここで踊っている人たちだって、裏ではいろんな家族の問題や、

悩みを抱えながら、生きているんだよね。

でも、こうしてみんなで踊ってさ、そこでバランスとってたりするんだよね。」

そう感じた。

そして、

「私の実母も、心が健康的であれば、こうしてフラとか習ったりして、

堅気の生き方ができただろうに。

そんな風に、なってくれていたらよかった・・・って。

そんな感じになっていたら、私もハッピーな気持ちになって、楽だったのになぁ。

どうして、あんなやくざな生き方をするんだろう・・・。

悲しいなぁ。。なんで分からないんだろう。。寂しいな。」


そう思った。感じ始めた。

すると、

ボロボロボローーっと、

涙が溢れて止まらなくなった。


舞台で踊るフラの人たちも、こちらをちらりと見ている。

ごめんなさい。

涙、止まりません。

あなたたちのように、美しく、そして問題があったって、

こうして踊る機会を掴んだ人たちが、とてもうらやましくて。

とても輝いていて。

その輝きを、実母に分けてあげたくて。


彼女が踊ったら、それはそれは綺麗で、目だつだろうな。

きっと誰よりも、輝いて見えるのにな。

もったいない。 自分の活かし方が違っちゃった。

悲しくて、寂しくて、むなしくて。。。


でも、彼女が選んだ道なんだもの。

外から誰かが働きかけたからって、当の本人が気がつかないと、

それはただの「否定」だものね。


自分の思い描く 実母の姿を

フラのダンサーに重ねた私を

フラが 癒してくれました


ありがとう




人を信じる 自分を信じる 

2011年02月23日 | これも自分あれも自分
「自分をもっと信じなさい」

カウンセラーの言葉です

「もっと、自信をもっていいよ」

友人たちの言葉です

今の自分が いつでも100パーセント

100パーセントの連続が 

1週間となり、1ヶ月となり、10年にも50年にもなる

すべてが積み重なって

100パーセントの自分ばかり 活躍してるのが 今なんだね

それは 考えてみたら すごいことだと思う


自分を信じることができない人間が

人のことを信じることができようか

私は 自分自身に 疑心暗鬼だ

いつも おまえなんて 何にもできやしないじゃないか

ほらみろ とっても力のある人が たくさんいるじゃないか

おまえなんて 必要ないんだ

おまえが ぐーたらしている間に みんなおまえを見下していくんだ

ほら もっとがんばれ

ほら もっと仕事しろ

ほら まだ足りないぞ

なにやってるんだ 

それは間違ってる おまえの生き方は無計画すぎる

子どもだ ガキだ 大人なんだろう


そんな声が いつも聞こえてくる

どこかで ささやくんだ 私の心の中に


それは 自分の中のインナーチャイルドが 幼い頃に言われてきて

傷ついてきた言葉たちかもしれない


言葉としてだけではなく なんとなく態度として感じてきたことかもしれない


言葉ではなく 表情から見える 人間の裏側

私は それは敏感で それに怯えて暮らしてきた

大人の 裏側の事情を 察知し 観察し

表と裏とを 幼い頃から見極めてきた

大人を 100%信用してなかった 冷静な自分がいた


私のインナーチャイルドは そんな中で

自分が元から持っているフィルターを通して

ますます疑心暗鬼になっていく


その「疑う」というフィルターを

取り払うことができれば

もっと楽になるだろう


それを取り払う行為は

自分自身を信じるということ

考え方の転換をしていくこと

時に疑ったり 時に信じたりを繰り返し

その都度、自分の感情に向き合って

溶かしていく作業をしていこう


ゆっくりでいい

じっくりでいい

道は 真っ直ぐに伸びている

自分の歩くべき道を 私は歩いている

そう確信する 朝だった

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