KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

愛しのお母様

2010-05-09 | KOFUKU日記
今日は母の日です
世界中にお祝いされるにふさわしいお母さまがたくさん居て、
きっとどのお母様も素敵なお母様なことでしょう
実際、ダメなお母さんなんて、本当はどこにも居ないのかもしれません。
私がこの世界に生きていて幸せでいられるのも
多くのお母様が素晴らしい人々のお母様であられたからです。
中原淳一先生も昔の少女雑誌の中で書いておられますが、
どんなお母様も世界にただ一人の方です。

私にはわたくしをこの世に迎えてくださったお母様、
そして、血の繋がった様に心を傾けているお母様がたがいます。
どの方も私にとっては、大切なお母様です。

さて、洗足の工房使わせていただいているお家には
素敵な屋根裏があり、大家さんのお家の古いものが一杯あって、
もともとあった家具などもいろいろと頂戴したのですが、
「上にあるものも差し上げるから自由に持ってお帰りなさい」
と言う素敵なお言葉を頂戴しまして、ひまひまにいろいろ見させて頂き、
ご本や小物など頂いてきて、大事に大事にしています。

その中に先日「母のしおり」なるものを見つけました。
そのご本は昭和30年くらいの御本で、30年ほど教師をしておられた
男の先生がお母様を思い起こしつつお書きになられたようです。
内容は「善き母」となるための指導要綱みたいなものでした。
その中に「子は親の鏡」また「親を見れば子が分かる」とあって、
親子とは似るもの、だからこそわが身の修養が大切とありました。
昔はお母様もお母様となるべくの心構えがしっかりしていたのですね。

でも、私はご縁あって「親子」が居る現場にたくさん関わって来ました。
なのでたくさんのお母様と出会い、また覗き見しましたが、
意外なことに「えーーーーー」(がっかし)
と言うお母さんも多かったのでございます。

よく出てくる親友のR君、当時同じ幼稚園に勤めておりましたがぁ
お母さん達の現状を見て、ある日、一言、
「幼稚園ってさぁ、夢を奪う場所だよねぇ。
って言うか、お母さん達さぁ、あんなんだったら生まなきゃいいのに。
ほんと結婚したくなくなるよね。」
と、仏のようなR君が申しておりますほどでした(^^;)

お母さん達が若かったせいもあるのかなぁ、子供そっちのけ、
自分がハッピーになれば、こどももハッピーになる
と言う意味を「自分勝手」と取り違えてるお母さん、
放任と言うか、母親放棄を「自由」と取り違えてるお母さん、
下品やがさつなことを「気さく」と何から何まで勘違い。
絵本を読んであげるのでさえ、内容はしょっちゃったりとか。
まあ、いろいろで、子ども側に居る子どものような感覚の我らは(笑)
子どもらの気持を思い、時に怒り、時に切なくなったりしたものです。
(あ、もちろん、自分たちのことは棚に上げてですが・笑)

ということでー、皆様は「理想のお母様」像ってお持ちでらっしゃいますか?

え?わたし?
心の狭~い私は~、「どんなお母さんも素敵!」
そうは解っていながらも、「理想像」ってものにがっつりと縛られる、
本当にちっぽけな奴なのであります

そして私の理想のおかあさま像はー、間違いなく
「ワタクシ自身のお母様」であります!
もう、きっぱりです!そのくらい私は母を心から敬愛しております。
アタクシ、紛れもないマザコンです(笑)MOTHER LOVE!です。

あ、でも基本的に女性性にあふれる素敵なお姉さま方が好きなのですわ
だからでしょうか、お母さんってイメージがしっかりあるかもです。

そんな私の愛する母は数年前に倒れて今は寝たきりになりました。
意識もはっきりしないので、もう話すことも出来ません。
きっととても大変で苦労の多い人生だったので、
神様がもう休んで善いよーって言ったのかも知れません。
今は赤ちゃんのように眠って、そして傍に居る家族が大事に大事にしてくれています。
だから、遠くにいる私は、大好きだった母の面影の中で暮らしていられます。
昔は母にあんなにも冷たかった父も今は母にとても優しいのです。
もしかしたら、父を心から愛した母はそれが嬉しくて寝たきりなのかもしれません(笑)

こんな話は家族には全くしたことありませんが、
私は元気だった頃の母がとっても好きだったので、
勝手な勝手な言い分だけれど、今の母の姿は悲しすぎて
どうしてもどうしても傍には居られないのです。
だから、今の母の傍に居てくれる家族には心から感謝しています。
本当に本当にありがとうございます

家族が母を同じように思うかは分かりませんが、
私の知っている母は本当に素敵な女性でありました。
4人の子をもった母はある程度年を取ってから子をなしたので、
一番下の弟を産んだ時には、今でもきっと少ない年齢での出産で
すでにかなりの年齢に達しておりました。
私が家を出た後はしっかりした妹と優しい弟に守られて
もともとのお嬢様気質が出たのでしょうか、マッタリゆったり
ちょっとポケポケ~って感じな出来事もあったようですが(^^;)
私が母と過ごしていた頃には母もまだまだ若うございましたから
綺麗で、愛情深く、頭が善くて、何でも出来る自慢の母だったのございます。

幼い頃から踊りの名手で、歌劇の娘役トップも勤めた母は
私が成人するまで、生活の殆どを着物で過ごしておりました。
真っ黒な天然パーマの長い髪に椿油をつけてまっすぐに梳かし、
きちんとアップにして、襟元も正しく着物を着ている、
手先がとても器用で、お料理でもお裁縫でも何でも上手、
その上、明るく朗らかで、お話や絵がとても上手く、
本が大好きで、いろいろなことを深く考え、自分の意思を大切にし、
それ以上に他の人を常に尊重し、お金や政治の力に屈することなく、
誰より夫を愛し、子どもを愛し、自分より他人を大事にする人、
花や動物や自然をとても大事に愛する人。
それが私の幼い頃の懐かしい母の面影です。

母は娘のワタクシがいうのもなんですが美人です。
「眉目秀麗」という言葉がぴったりのとても美しい人で、
とても上品なオーラを持っている人です。
父はそれが大層自慢なようでした。
おかげで二十歳を過ぎた頃から私を見るたびに父が
「お母さんが同じ年頃にはもっと綺麗だったのに…」
と切なげにつぶやきやがりましてねぇ…(--#)
仕方ないわ、お父さんの血が混ざっちゃってるしー(開き直り)
まあ、紛れもない美しい人です。

さらにいつも和装。
私の幼き日もすでに普段着が着物と言うのは珍しくなっておりましたから
母の存在は近所では結構目立っていたようでした。

中原淳一先生の「きもの読本」のなかで、
子供時代にお母様が着かえている姿のことにふれています。
 
「帰宅をして、普段のきものに着かえるとき、
折り悪しくその部屋に家族のものがいると、
外であったことを話しながら、肌とか肌着をまったく人に見せないで、
まずこれから着る着物を片方の肩にパッとかけて、
するりと帯をとき、その下で袖に腕を通し、
また同じように片方の肩に着物をかけ、
今まできていた着物を落とし、事もなげにすらすらと着かえ、
帯をしめ、すぐその場に座って、脱いだ着物を鮮やかな手さばきで、
パタパタとたたみ、タンスにきちんとしまいます。
それを手品でもみるように、その鮮やかさにみとれたものでした。」

私の母は同じように出来る人でした。
ですから、私は母が下着姿などで家の中を歩いたり
だらしない姿をしているのを見たことがありません。
家に帰るとすっと正座をして、そっと身体をずらし
横座りしたかな?と思うと片手でさっとこはぜをはずして
するりと足袋を脱いでしまうのです。
裾の乱れなんか一つもありませんでした。
22センチの小さな母の足が、一層可愛らしかったのを覚えています。

そんな母はやはり近所のおじ様たちの憧れだったようで、
「いいなぁ、あんなお母さんで。まるで美智子妃殿下見たいだよなぁ。
綺麗でいいなぁ、お父さん幸せだね。」
とよく言われました。
(私も皇后陛下の若い頃を見るたびに、似てる…と思います。)

家庭訪問に来た先生が母とテーブルに向かい合い、
母と目を合わせ、母がにっこりと微笑んだとたん真っ赤になり
なかなか話が進まず、やっと終わって車まで一人で先生を見送ったら
それまで一体どーしたのよ?ってか細い声でしゃべっていた先生が
吐き出すような大きな声で、
「は~~~ぁあ~。いや~、お前のお母さん、きれいだなぁ~。
あんな女性はなかなか居ないぞ。おい、先生、今日来てよかったー!」
と言い放ち、笑顔で帰っていかれたことも…(本当です^^;)

手先が器用で、お料理の盛り付けはまるで絵のようでした。
(これは美しくないと絵を描く父が許せなかった見たい)
お洋服もおかげさまで、大人になるまで、殆ど既製品は着ませんでした。
普段着もドレスも着物もみんなみんな母が縫ってくれました。
セーターもベストもみんな母が編んでくれました。

幼い頃はとても裕福だったので、私はお人形を100体以上持ってましたが
どのお人形も私達と同じおそろいのお洋服を着ていました。
テレビや雑誌で、スターなどが素敵なお洋服を着ていると
次の日の朝には、姉妹でおそろいのお洋服が出来ていて
お人形も同じお洋服を着ていました。
お着物の小物だって、母が半襟に刺繍をしたり、組みひもを編んだり、
かんざしも家に伝わるかんざし以外は、絹のハギレをつまみ細工にして
それはそれは美しい飾りかんざしを作ってくれました。
バッグもお財布もビーズ刺繍をしたりして作りました。
おもちゃも遊び道具も魔法のように母の手から生まれました。


母はとても魅力的な人でした。
多分、その美しさは顔や見た目が綺麗と言う様な事だけではなく
なんというか、たおやかさと言うか、その性格や、
にじみ出る上品さにあったのではないかと思います。

母は神戸の生まれです。
祖父は当時、日本でも有数のお金持ちの一人でした。
大きな竹製品の会社を営んでおりまして、
戦時下では日本軍と日本市場の竹製品の半分を担っていたそうです。
日本だけでなく、中国や外国にも会社やお店がありました。
そんな、お家のお嬢様だった母。
天然パーマだったので「テンプルちゃん」と言うあだ名だったそうです。
幼少時の親友はドイツ大使館のお嬢さま。

幼い頃、家を出て、すぐの角で一人のおばあちゃまが
焼き芋やさんをなさっていたそうです。
それは普通の焼き芋ではなく、お芋を薄くスライスしたものを
焼いて売っていたそうで、それを見る度に食べてみたかった、と。

当時の日本は1円あれば、街で映画を観て、レストランで食事をし
家族にお土産を買って、タクシーで帰ってこれたそうです。
そんな時代の母に貰っていたお年玉は一人10円とかだったようで、
お正月にお年玉を握り、初めて買い物に行ったら、
10円を出されたおばあちゃまがびっくりして、
一緒にお芋を持ってお家まで来てくださったそうです。

疎開して、両親の郷里の鹿児島に戻ってきたとき、
学校ではモンペを着用せねばならず、
おばあちゃんがモンペを縫ってくれたそうですが、
綿の着物を一枚も持っていなかったので、
学校で一人、絹のモンペを着ていたそうです。

お魚も料理長が骨を抜いた切り身を出してくれていたので
学校で初めて書いたお魚の絵は切り身だったらしい(^^;)

そんな生粋のお嬢様だった母は戦後は祖父がシベリア抑留されて
とても苦労をしたようですが、母にも増して、明るく工夫の人で、
人様からから「生き仏」と今でも言われるおばあちゃんのおかげで
そういった良い部分を損なうことなく育ったそうです。

先にも書きましたが、若き日は踊りの師匠として
そして歌劇の娘役トップとして過ごしましたから、
なんというか、所作がとても綺麗でした。
ぎゃはは、がはは、などと口を開けて笑うこともなく、
いつも着物で背筋を伸ばし、目を伏せ気味に
唇に笑みをたたえていた母はまるで絵のようでした。

かといって決してお高くとまってる訳ではなく
いつも優しくて、朗らかで、明るく、お話がそれは面白いので
友達は母に会いたくてうちに遊びに来ておりましたね。


しかーし、そんな母を持ってしまった私は、
「理想」が目の前にありましたから、もう大変。
人間的にもまだまだ未熟だったのでぇ、
ほんと他のお母さんが受け入れられませんでした(^^;)

だってっ、違いすぎたんだもん…。
友だちのお母さん達と違いすぎて、そんなお母さん達に会いたくなくて
親友の家に行くのが私本当に嫌だったんです(すみません)
なんか、お母さんがお母さんらしくないのが、私、本当に嫌だった見たいで。
本当に心底がっかりしちゃうんですよ~~。
母がそうだったのもありますが、母から与えられた本、
昔の少女小説や雑誌のコラムなどに書いてある「お母様像」を
憧れのお母様像にしていたので、更にそうだったのですね。

子どもよりもテレビ番組を優先しちゃうお母さんとか、
お父さんや子どもの悪口(けなしたり)いうお母さんとか、
本当にダメでした。

私の母はお友達が来ても、玄関で笑顔で迎えてくれて、
お手製のオヤツを作ってくれて、私達が遊んでいるうちに、
お友達とおそろいの小物を作ってくれたり、
いろいろ工夫した遊びを一緒にしたり、お話したり、
帰りだって、玄関まで見送ってくれて
「○○ちゃん、今日はきてくれてどうもありがとう。
また遊びにきて頂戴ね。」
と言ってくれるお母さんでしたから、友達は私が居なくても
母に会いたくて毎日うちに来てました(笑)

決してテレビに行っちゃったり、無視したり、
だからといって邪魔したり、そんなことはなかったのです。
食事をしても、美味しいものはみんなお父さんや子どものお皿に入れてくれて
自分は残ったものを口にしながら嬉しそうに観ていました。
家族の悪口を言うとか、信じられないし。
誰より早く起きて、誰よりも遅く眠る。
それがとても嬉しそうに出来る人でした。

だから、私はそんな母親像に、そして女性にあこがれるのです。
いまは、人生をある程度経験した事もあり、自分自身の未熟さゆえに、
他のお母さんを否定したりしなくなりましたが
それでもやっぱり、中原淳一さんがエッセイで書いているように

「あなたのお母様がお母様らしくなかったり
お父様がお父様らしくなかったりするのは嫌でしょう」

って言葉に「うん」ってうなずいてしまう私なのでした(^^;)
やっぱり、母のようになりたいと思う、今日この頃です。


お母様、私を生んでくださってありがとうございます