【12月になりました】
南国もどんどん冷えこんで参りました。
実家の周りの木々も一気に色が変わって雨の様に落ち葉が舞っています。
南国の秋はとても短くて、急に来て急に去るんですよねぇ。
四季のしっかりある東京暮らしが長かったので寂しかったりしますね。
【最近はちびさんたちもお昼寝にはブランケットが必須】
【我が家にはチビさん達用のフリースや毛布がたくさんあります】
冬がやってきた!って感じですが、我が家はまだコタツの電源を入れず頑張ってます!
流石にちびワンコが6匹もおりますと皆でより集まればヌクヌクです(^ω^)
寒い日はこたつ布団の上に羽根布団をプラスしたりしてます。
ちびさんたちは皆で電源無しのコタツに入ったり(^_^;)
私も毛布にくるまって、皆とそばに寄り添って眠ったりしています。
おかげで夜も全員同じ布団に入って眠るのでとってもヌクヌクさんです。
けれどもやはり小さい人たちは風の子さん。
昼間は元気にお庭で遊んだり、夜も部屋の中を駆け回っています。
【ぴーちゃんはそろそろ12歳 お眠いお年頃です】
【アタシの中では永遠のおこちゃまだけどね】
ぴーちゃんはそろそろ年齢的にお昼寝が多くなりましたけど
それでも時々、みんなと喧嘩したり、諌めたりして元気いっぱいです。
ちびさんたちが年を重ねていくのもココロ静かに受け入れるべき大切な時間ですね。
【膝の上は一番上のピグ姉ちゃんと決まっているのですが(^_^;)】
【空いているところは下の子たちが順番に抱っこでお座りします】
【今日のコタツ抱っこはみーたんとまろたん(^ω^)】
【寒かったり、雨の日は家の中で大暴れするのだ!南国チワワンず】
こっちに帰ってきて「良かったなぁ」と思うことの一つは、
実家のワンちゃん「まろ君」が男の子ワンちゃんだったことデスーヽ(・∀・)ノ
【長男坊のまろたん(^ω^)】
なんだそれ?と思うかもしれませんが、
ワンちゃんもですね、人間のように男の子と女の子全然違うんですよ。
やっぱり女の子は女の子らしいし、男の子は男の子らしかったりするものなんですよ~。
6匹もいますとね、その差が顕著で、それぞれ個性もしっかりしてるので、
もうすっかり男の子と女の子の兄弟をもったお母さんの気分ですね(笑)
しかも、皆さん、永遠の2~5歳児で居てくれますからね、可愛いです。
実は私は男の子ワンちゃんが微妙に苦手な部分があったんです(^_^;)
でも、一緒に暮らすようになったら、
そんな事は遥か彼方に忘れてしまったかの様に
男の子ワンちゃんが可愛くなっちゃいました(´∀`*)
今や男の子ワンちゃんヽ(´ー`)ノバンザーイ!って感じ?(笑)
最近流行りのジャーニーズアイドルよりも
イケメンよりも、うちのチワメンです!!(笑)
確かに男の子は女の子と違って、家中にマーキングしたり
女の子がヒート中の性衝動などが激しいので
困ったことはかず限りなくあるんですけれどもね…。
でも今は、それすらもありがたく感じます(*^_^*)
いや、これはマジなはなしなんですが、
つい先日も、庭で遊ぶちびさんたちを見ながらデスね、
「ああ、男の子も産んでよかったわ…」
と、真剣に思っちゃいまして…( ̄▽ ̄;)
( ゜д゜)ハッ!と気づいて
「いやいや、確かにアタシが取りあげた子たちだけど、産んでないわ( ̄▽ ̄;)」って(笑)
(しかも感覚としては先に女の子を産んでた前提だったし・笑)
でもねぇ、どの子も「アタシが産んじゃったわ~~~」
って本気で思うくらい大切で可愛いのですよ(^ω^)
私は残念なことに子どもを持つコトはありませんでしたが、
偶然にも、人生を生きる上で、たくさんの子どもさんを教えることになったり、
こうして人間に一番近い小さい命を預かったりすることになり、
ほかのお母さんたちと同じような経験をさせて頂けております。
本当にありがたいことだなと思っています。
この小さな子達からは、本当にたくさんの気づきをもらい、
いまは生きる力をも、彼らからもらってる、と言っても過言ではないです。
大切な命、最後の日まで大切にお預かりしたいなと思っています。
と、言っても、彼らは私を母とは全く思ってませんがね。
「ママ」は妹なので、私のことは「ネーチャン」という言葉で反応します(笑)
母っていうか、どっちかっつーと「乳母」…それとも「召使」か?( ̄▽ ̄;)
イヤ、相方さんいわく「椅子」
………(--〆)
まあ、なんでもいいわ(笑)
南国ちわわンずちゃん達、生まれて来てくれてアリガトウ(*^_^*)
【ちびさんたちは仲良し、いつも一緒に寄り添って寝ています(*^_^*)】
私が動物や自然に惹かれ心を向けるのは相方さんと同じ理由です。
多分それは演劇や芸術という事に向かっている心も同じ。
具体的にそれを言葉にして語り合ったことはないけど、
間違いなく同じ様な感覚と確信していました。
それをお互い誰よりも深く感じていると思ってました。
私たちが彼らに心が向かう理由は、彼らには嘘がなく本質そのもので
彼らが本当の意味で「生きている」と感じるから。
そして同じように、自分たちが選んだ世界もそう言うモノであり、
自分たちも同じように生きていきたいと願っていたからだ、と感じています。
さてさて、多くの人は「お芝居」というものを
「嘘をつくこと」と思っているようですが…( ̄▽ ̄;)
実際、ワタクシがお仕事は「俳優です」というと
「じゃあ、君は嘘つくのが上手いんだね。あーコワイコワイ」
って笑いながら言われたりします…しかもしょっちゅう…(ーー゛)
お芝居をするにあたって、演技ということの捉え方や考え方にも
またその演技法に関してもたくさんのルーツがありまして
人によって大きな差があるので、私の意見は一意見でしかありませんが
ワタクシ自身は、お芝居をする、演技をすると言うのは
「嘘をつくこと」ではなく、舞台や演技の場において
「現実的な現在を生き、未来を作り続けること」と捉えています。
もちろん演者の中には「演技」すると言うことを
「決められているシチュエーションに合わせ、そうやっているように見せられる事」
という風にお考えになっている人も、正しいと思っている人も多いです。
演技のテクニックとして、それがそのように見える事は
本当に大切なことなのは確かですが、それが本質ではない。
と、ワタクシはトラエテオリマスノデス。
良く「なりきる」と言いますが、今の方は「なりきる」ことを
「最後までそれっぽく見せることを維持する」と勘違いしている人もいます。
イヤ、考え方によってはそれも間違いではござんせん。
いろんな考え方がありますが、私にとって「演じる」という事は、
その世界の上で「その人として真実生きる」という事です。
精一杯その人として生きるという意識、行為なんです。
と、言いましても、説明は非常に難しい。
もちろん演るのもムズカシイ( ̄▽ ̄;)
まあ、やってるのは実質ほかの人間なわけで、
脚本もあって、最初からその世界があるわけですから、
「他人がそれを覚えてやるんだから嘘じゃん」
「なりきると勝手、その人になれるわけないし」
と言われるのも事実なんですが(^_^;)
でも、そうではないのです。
と、私は思っています(笑)
演劇の祖と言われるスタニフラフスキーと言う方がいます。
この方の演劇論は「スタニフラフスキー・メソード(メソッド)」といって
世界中の演劇の基礎として存在しています。
みなさんがよく見るアメリカ映画なんてのも、この演技方がベースです。
アメリカの俳優さんとか、演技派と言われる人には良く、
アクターズ・スタジオ出身なんて言葉がくっついてますが
ここで学ばれている方法がこのメソード演技デス。
たとえば、古いところではジェームス・ディーンとか
ロバート・デ・ニーロとかブラッド・ピットとか、
いろいろな人がここの出身です。
こういう俳優さんはこのメソッドに従って演技を組み立てています。
つったって、わかんないよ~、って思いますよね?
Wikiを引用するならば、
メソッド演技の特徴としては、担当する役柄や
劇中での状況やその感情に応じて、より自然な形で演技を行う点である。
メソッド以前の演劇においては、役者は役作りや演技を行う際は、
発声や仕草、パントマイムなどのテクニックを使用し、感情や役柄の表現を行っていたが、
メソッドでは、そうした形式的で表現主義的な古典的な演劇手法と距離を置き、
より現実と近い、自然な演技を追求している。
そのため、演技をする過程においては、担当する役柄について徹底的なリサーチを行い、
劇中で役柄に生じる感情や状況については、自身の経験や
役柄がおかれた状況を擬似的に追体験する事によって、演技プランを練っていく。
……………
(つд⊂)む、難しい…余計わからんわー
まあ、「なになに論」ってさ、一種の哲学やからのう
え~、ということで、親しくしていただいている
スタニフラフスキー・メソッドを指導してらっしゃる
永妻晃先生のご説明は完結でわかりやすいと思いますのでご紹介。
************************
スタニスラフスキーメソッドとは
型。つまりせりふを抑揚で意味づけしたり、
外見の動きで演技を説明したりせず、
内面的な精神を大切にする演技技法です。
メソッドがリアルである秘密は、
演技が内面の衝動から生まれ出ることにあり、
人の経験を本能的に使うテクニックにあります。
************************
少し、わかった感じでせうか?(⌒-⌒; )
ところが、実はこのメソッドって技法はですね
日本では長らく存在してませんでした(^_^;)
日本人の国民性や歌舞伎的な文化は、このWikiの中の
「メソッド以前の演劇においては、役者は役作りや演技を行う際は、
発声や仕草、パントマイムなどのテクニックを使用し、感情や役柄の表現を行っていた」
とあるように、いわゆる「形」が重視でしたからね。
それが日本的演技の伝統にあるので、今も日本の芸能界や、
ご覧いただくお客様の意識の中には
「リアルであっては演技でない」という感覚とか、
いわゆるオーバーな説明的な演技的演技が本物、
と言う感覚や意識が根強く残っていたりします。
オーディションなどでも、リアルな演技をすると監督さんとかが
「リアルでいいねぇ!じゃあ、すこし演技してみようか?」
とか言っちゃうのが日本の芸能界だったりするのも事実です(笑)
ですが、私は歌舞伎や古典芸能の方も存じ上げているので、
声を高くして申し上げたいと思いますが、
古典芸能は確かに「形」という伝承がベースですが、
その根本にあるものは「心」とても「リアル」なものです。
どちらかというと、現在は古典の世界の方が、
メソード的な意識が生きているのではないかとおもいます。
芸能界でもアレコレ中途半端な学び方をした方ほど形に囚われていて
それっぽく見せる技術ばかりを追っていて心が宿っていなかったりするものです。
歌などもそうですよね。
歌をただ楽譜どおり、歌詞通りに歌ったとて、
それはただの音でしかないのと同じなのです。
スタニフラフスキーの言葉にこういうのがあります。
「さあ、芝居を始めたまえ。
だが、決して演じてはならない。」
この言葉の意味するところ、決して演技(嘘や真似事)をしていない
状況や心を生きているのが「芝居」だと私は思っています。
とはいえ、私も日本のミュージカル出身でございますゆえ、
リアルストレートプレイ、なんつーのには全く無縁でございました。
だってミュージカルって計算してこそ成り立つ世界なんでございますもの。
普通のお芝居の何十倍も決まりごとがありますからね。
音に合わせ、踊りに合わせ、ですから。特にレビューっぽい作品は。
コレ、リアルつっったって無理だろうよ~、ってなもんです。
レッスンだって、いかに音声で、見た目でそれを表現するかを学びますから。
でも、本当に役者を目指している人は、それではダメだと自ずと気づきます。
テクニックや表現だけじゃ、ダメなんだということに。
ミュージカルも本当に大切なのは
「演じながら」、歌い、踊ることなんです。
その「演じる」はそれに見えるように「フリ」をすることではありません。
そこに気がつくと、テクニックを本当の意味で我が身につけることに努力します。
それが当たり前(リアル)となるようにすることに意味があると気がつくからです。
時々、そうじゃなくて、生ならなんでもいい、と極端に走る人もいるけど
これが「エンターテイメント」と言う芸術つである限りは
心があればいいってものでもない、どちらも揃ってリアル。
私はそう感じています。
実際的に形としてはメソッドという形は望めないという
ミュージカルや歌舞伎や狂言なんていう型ありきの芸術も、
最低限、心がリアルであるか否かということが大事だと思っています。
もちろん、私の感覚ではなんですが(^_^;)
でもね、某劇団の浅○先生も常々言っておりました(⌒-⌒; )
「役者なら舞台の上で生きろ」と。
ヒトデのぬいぐるみを着て舞台に出るなら内臓になれ!ってね。
そうじゃなきゃ、舞台に出てる意味はないんだよ、死んでるんだから、って。
ほんの数年前までは、メソッドなんて受け入れられなかった日本芸能界も
ハリウッド映画に日本人が進出したりして、そう言う人がメソッドを学ぶようになり
やっと、そういうお芝居が映画などに使われるようになってきました。
とても大切なことだと思います。
ひとつ動画をご紹介しましょう。
新演出版!舞台『レ・ミゼラブル』海外プロモーション映像
今度、レ・ミゼラブルは新演出になります。
これは新しい演出の海外の舞台のPVです。
レミは全編歌によって進んでいくミュージカルなのですが、
「演じる」ということが強く感じられる作品であると思います。
話は飛びましたが、要するに相方さんと私の創る作品は、
役者自身が「真実であるか、本物であるか」ということが大切なのです。
魂の部分に嘘がなく、本当に生きているか、本物であるかという事です。
それが舞台であれ、ミュージカルであれ、TVや映画であれ、
絵であれ、歌であれ、踊りであれ、文章であれ、
手仕事であれ、教育であれ、医療であれ、仕事であれ、遊びであれ、
悪であれ、善であれ、意味あるものも、ないものも、
そして人生であれ、およそ芸術と呼べるものは、
この世で芸術であるべきものの全て、およそ私たちが触れ、
感じているものの全ては、そういうものではないかと、私は感じています。
(多分、相方さんもそう感じて生きていたと思います)
そして相方さんは、その指導者をして
「自分が知る中で、唯一、メソッドを体現できる役者」
と言わしめるほど、共演した人が彼の芝居によって芝居に魅せられ
自分の芝居を忘れてしまうほど、リアルに生きられる天才的俳優でありました。
つまり、舞台の上でも、常でも、懸命に生きている人であった、と言うことです。
私は人間としても、俳優としても、相方さんをココロから尊敬しております。
彼と生きられたこと自体がこの世に生まれた意味といっても過言ではないと思っています。
なんせ、彼との時間は「生きて」いましたし、今も「生きて」いますから。
まあ、長々、自分の中の在り方を語りましたが
お芝居は何をおいてもお客様あって完成するものです。
芸術ってものは相手がいて初めて成り立つものです。
ですから、受け取り手の受け取り方でも思いっきり形は変わる、
それは全然理解して語っておりまする(*^_^*)
しかし役者は嘘つき、と言われますが、
この世の人ってのは実は役者よりも全然演じて生きているよね。
嘘ついて、自分を押し隠して生きているよね。
ホントは役者なんかより、ずっとずっと「嘘つき」は多いよね~( ̄▽ ̄;)
なんて思う私がいます…
人間ってさ、演じてる時の方が正直だと思うぞ、うん。
一般人と自分たちを及びになってる方のほうが生き方は壮絶な気がするよ、、、
だって、芸術家って意外と時間ないし、それに没頭してっからねぇ(笑)
まあ、いいや(笑)
とにかく、だから私は人生をかけて生きてるのです。
だから、へこたれてる自分も、頑張ってる自分も、どっちもOK。
だいたいね、「こうあるべき」なんてのも流動的なもんですよ。
人間立ち位置が変われば見えるものも変わるんだから。
と、すれば、信念を変えないという部分に当たることが私にはココ。
そのときの感情をちゃんと生きていることが大事なのだ。
それが現実という世界を生きることでもあると、
ワタクシのココロは深く感じているのでアリます(^ω^)
【今日は大きな風が吹いていて落ち葉が庭にいっぱい】
【もったいなくて庭掃除できない。もっと積もらないかなぁ~。】
こう言った感覚と言うのは、ものすごく昔々から私に宿っていました。
それこそ赤ん坊の頃からといっても過言ではないです。
(私は生まれて、すぐからの記憶があります)
それゆえに生きてる上での疑問が多い子どもで、
この自分が感じてる「ほんもの」という感覚がなんなのか、
自分でずっと探し当てようとしてきました。
だから何がほんとか知りたいと思って、いろんな宗教を学んでみたり
哲学や医学なんかを学んでみたり、片っ端から本を読んだり
いろんな人の話を聞いてみたりしました。
そして、成長するにつれて自分が触れ合うものの中から、
その感覚の香りがするものを見つけては、その欠片を拾いました。
かけらを拾ってはそれを静かに見つめ、心の宝箱に入れながら
自分の中の思いを確信する作業をひたすら続けてきました。
ただ知識を入れるが目的ではなくて、
自分の持っている感覚と合わせて見るのです。
私は人の言葉が欲しかったのでも、知識が欲しかったのでもなくて、
自分の中に持っているものが何なのか、それを知りたかったから。
ただ、それが知りたい子どもだった様に思います。
家(家系)自体がスピリチュアル的な感覚や出来事が
普通に存在する場所であったので、それらの経験もかなり大きいけれど、
高校を出る頃までには自分は大体どんな生き物であるのかを
つかめていたんじゃないかな~といま振り返って思う。
なんとなく、そしてダイレクトに、自分の使命なるものを
タマシイの奥深くで勝手に理解していたように思います。
ここまで自分の努力を中心に切り開いた人生のようにも思うけれど、
その反面、魂の奥で無意識のナビみたいなものを常に感じていたので、
ただそれに素直に従って生きてきたってところかもしんない、とも思っています。
まあ、ここまで読めば想像できるかもしれないのですが(^_^;)
周りからすれば私は幼少時から非常に特徴的な子どもであったらしく
変というか、変わってるつーか、不思議というか、いろいろ言われてましたが、
当人は別段なんとも思ってはおりませんでした。
今はそういうのは変わってるという感覚で取られるということは知ってます。
ただ、そんな変わったイメージの人間である上に、
ある年齢くらいから、親が天から地に転げ落ちるように、
裕福な家庭から地を這うような厳しい生活をする身の上となったので
世間の風当りはかなり厳しゅうございましたねぇ。
ですから「友」なる人との触れ合いは殆どなかったです。
っていうか、私は単純に周りと合わなかったのだよねぇ…(;´∀`)
周りの子どもと話しても、こいつらは外国人ですかい?
というくらい話も通じなかったし、だから遊んでも楽しくなかったし。
周りが面白いと思っているものをなにも面白いと思わなかったし。
同じ子供とも思えぬ程に共通点が全く見いだせなかったんですよ。
まあ、アタシが受け入れられないタイプだし、入ってかなかったんだな。
その証拠に妹らにはお友達がいっぱいいますもんね(^_^;)
だから私の友達は本だったり、映画だったり、舞台だったり、
絵だったり、音楽だったり、手仕事だったりしたわけです。
だって人と付き合うより、そっちが断然面白かったんだもん。
それで、ひたすら色んなことを考える。毎日がすごく面白かった。
それは今も変わらない気がしますが。
とにかく、そんな人間ではない友達の中にはお気に入りがいるわけです。
たとえば本の世界にも沢山お友達がいます。
大草原の少女ローラちゃんとか、時間泥棒のモモちゃんとか(笑)
まあ、いっぱいいるんですけれどもね。
中でもお気に入りの心友がこの子。
フィン作の「アンナの小さな神様」のアンナちゃん。
アンナと自分は結構似てる、と思えるところがあって
フィンとフィンのママは私の守護霊さんとお母さんにも似ています。
だからアンナの話を読むとまず懐かしい感じが湧き上がるのです。
私は小さい時、守護霊に文字を教えてもらいまして(私にはマジな記憶)
誰も教えないのに3歳で急に本が読めるようになった過去があり、
(多くの人は信じあせんが、母は信じてくれていました)
4歳で医学図鑑を、5歳時には大人の読む本を読んでました。
そんな感じだったから頭でっかちで、いろんな事に理屈をつけないと
(答えを見つけない)理解ができなくて困ったりするへんちくりんな子どもだったのです。
いまや素晴らしく大きく育ちすぎた私だけれども(ーー;)
超未熟児だったので5歳の時のドレスが10歳で着れるほど小さくて
ご飯も超偏食で体も弱かった、親はさぞかし苦労したことだろうなぁ( ̄▽ ̄;)
そんなちびな私は3歳くらいの時、本で体は脳の指令により動き、
その機能ゆえに生きることを敢行できることを知ったのですが、
ある日、そんな事にふと疑問が湧いたのです。
なんでか?って言うと、自分がとても不思議な存在だったから。
それはね、自分は口を開かずとも言葉をしゃべれるし、音が聞こえるってこと。
どういうことかというと、ほら、みなさんも心の中で何かを考えると
自分の声が自分の中で聞こえますよね?私はそれが不思議でならなかったのデス。
だって、だってさ?本によればだよ、声って声帯の振動で起こるんでしょ?
音ってさ、耳に振動が伝わって、それを脳が声と判断するんでしょ?
だけど、自分はその機能を今使ってないわけじゃん?
なのに何故、声となって聞こえる?おかしくない?
私はそう思って不思議だったのですが、一瞬にして謎がとけまして…。
「ああ、この肉体とは別に、私の中にはカラダがあるんだ」
すとんとそう思って、じっくりと納得したんです。
なんか降ってくる感じにそう思っただけなんですけどね。
だから根拠は何もないんですけど(;´∀`)
あぁ、だから金縛りは起きるのか、だから他の人に聞こえない声が聞こえるのか、
大切なところはこの体じゃない、もっとほかの所にあるんだなって。
自分に起きている不思議なことが、すっかり分かっちゃった、そんな感じで。
そういうのが大人になり、ただの人になってからもずっと続いてい
我が事ながら、なかなか興味深い人間だと、自分でも自分を見ていたりする。
ところが、そんな私は人によっては気持ち悪がられたり恐れられたりもする。
まあ、見えないものはアタシも怖いから、それは当然だと思ってますが(;´∀`)
うん、淋しいこともありますね。そういうことには。
そんな時、心の中にいるアンナちゃんやローラたちの存在や生き方が
自分を肯定してくれているように感じたりすることがあります。
なぜなら彼女たちの言葉は、私自身の言葉でもあるからです。
人は感情と共に自身の言葉を生み出すのが仕事でもあると感じますが
それ以前にある「思い」というものは、時に表現にならないとき、
言葉にならない時というのも多くあります。私は、ということですが…。
でも不思議なもので、同じ魂の持ち主でなくても
ワタシ語で言うところの「同じ星からきた人」たちと言うのが
私の中にある言葉で喋ってくれるときがあるのですよ。
そんな言葉や思いを見つけるとちょっとホッとします。
「アンナの小さな神様」はロンドンに住む19歳のフィンが
5歳のアンナと出会い、家に引き取って彼女が亡くなるまでの数年の話デス。
マイナーな本だけど、この話をバイブルにしている人が多いと随分後で知りました。
ちょっと同じ星から来た人が多い感じで嬉しい(笑)
このストーリーを言葉で語るのはとても難しいので
すこし、アンナの言葉を書いてみたいなーと思います。
アンナの物語はアンナのこの言葉で始まります。
「人間と天使を見分けるのなんて簡単よ。
天使のほとんどぜんぶはなかにあるし、
人間のほとんどぜんぶは外にあるわ」
*************************************
「神様は、自分が、善良で親切で、愛情深いなんて知らない。
もし、神様が、自分が善良で親切で、愛情深いなんて思っていたら、それは嘘になる。
神様はからっぽなのよ。
**************************************
「神様は、すべてを受け入れてくれるの。
何にも、跳ね返さない。
何も、反射しないから、
神様は、私達の目には見えない。
そして、どんな色にも染まっていない。
だから、見えない。
だから、からっぽ。」
************************************
「何が悲しいんだい?」
「人間がよ」
「なるほど。人間のどこが悲しいんだい?」
「大人になったら、人間はもっとかしこくならなくちゃいけないわ。
ボッシーやバッチはそうよ。でも人間はかしこくならない」
「そう思うかい?」
「そうよ。人間の箱はだんだん小さくなるの」
「箱?箱とはどうもよくわからんな」
「質問はね、箱のなかにあるの」
アンナは説明した。
「そしてその箱のサイズに合う答えだけが得られるのよ」
「むずかしいな。もうちょっと説明してくれ」
「説明しにくいわ。つまりね――つまり、答えは箱とおなじ大きさなのよ。
ちょうど次元とおなじみたいなものよ」
「へえ?」
「たとえば二次元で質問をしたら、答えもやっぱり二次元で返ってくるのよ。
箱みたいなの。そこから外へはでられないのよ」
「だんだんわかってきたような気がするよ」
「質問は箱のふちまでいって、そこで止まっちゃうわ。牢屋とおなじよ」
「われわれはみんなある種の牢屋にいるんだと思うがね」
彼女は首を振った。
「ちがうわ。神様はそんなことしないわ」
「あるいわな。じゃあ答えはなんなんだい?」
「神様をあるがままにおけ。神様はあたしたちをあるがままにおいてるわ」
「われわれはおいていないのかい?」
「ええ。あたしたちは神様を小さな箱にとじこめちゃってるわ」
「まさかそんなことしてないだろ?」
「いいえ、しょっちゅうよ。それはね、ほんとうに神様を愛していないからなの。
あたしたちは神様を箱から出してあげないといけないわ。
それが愛というものよ」
*************************************
「お日様は素敵だわ。
でも、お日様の光はあんまり明るく照らすから、遠くまで見えないのよ。」
アンナは言ったものだ。
「昼間はね、目に見えたもののところで心が止まっちゃうから、それ以上遠くへ行けないのよ。」
「で、その説には、なにか意味があるのかい?」私は問うた。
「夜のほうがいいって言ってるのよ。夜は魂を星まで届かせてくれるわ。
そしてそれはね、ずっとずっと遠くなの。夜には、どこまで行ったって止まる必要がないのよ。
耳も同じだわ。昼間はやかましすぎて何も聞こえないけど、夜には聞こえるの。
夜はね、あたしたちをひっぱって、のばしてくれるのよ」
**************************************
「お前さんは暗闇が好きかね?」
アンナはうなずいた。
「それは人間を引き伸ばして、大きくしてくれるわ。それは箱を大きくしてくれるわ」
彼はかすかに喉を鳴らして笑った。
「いかにも、いかにも。わしが闇を好む理由はな、
闇の中では自分を自分でこういう人間だと言わなきゃならんからさ。
昼間なら、他人が自分をこういう人間だ言ってくれる。
わかるかね、それが?」
****************************************
「まことに、わたしがそなたを愛するのは、
私の目によってではない。
わたしの目はそなたのうちに、
数多くの欠点を認めている。
目がさげすむものを、しかし
わたしの心が愛するのだ。」
シェイクスピアのソネットより
*********************************
うまく言えないんですが
アンナの言葉の中に自分が向こうの世界から来るとき持ってきたものがあって
私が生きている上でこの世で探しているものがあるのです。
「天使のほとんどぜんぶはなかにあるし、
人間のほとんどぜんぶは外にあるわ」
外見、地位やお金、仕事、いろんな外側。
人間はそういう部分が大事。
でも、大切なのは魂の部分
本物の部分
だけど、それは立ち位置によって大きく変わったりもします。
それはアンナが言うところのガラスのかけらのせい。
人間は知らず知らずのうちに、色つきガラスをこころの目にあてがって、ラベルを貼る。
そしてガラスの色とラベルに従ってものを見る習慣に陥っている、と彼女は言います。
クリアな目で中を見られたらすごいと思う。
ただ、そうでなくても、それもまたいいと思う。
多分、アンナはそう言うだろうなぁ。
そうじゃないな、と感じていても、それでいい、と言うと思う。
多分、そこに中はあるとも言えるのだから。
人間がガラスのかけらを持ってることを、忘れないでいればいいんじゃないかと思う。
多分、だけど。
さて彼女、、アンナと私の一番の共通点は
誰にも教わらなかったのに勝手に「神さま」を知っていた事。
私はそう思っています。
(*´д`;)…どうでもいいけど
最近、文章がさらっと書けないので
以前よりも何十倍の長さになっております。
困ったもんだ。
でも、どうもならんのぅ…