KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

レモン酒美味し(*^^)v

2009-08-16 | KOFUKU日記
先月の初めにつけたレモン酒。
飲めるようになりました。
本当はもっとつけときたいんですが、住人が必要としていたので(笑)本日お披露目。
早速、相方さんは美味しく飲んでおられます。
美味しいそうで良かったよかった。
チェリーは色重視だったんでリカーでつけましたが、レモンはラムと蜂蜜でつけました。
本来は皮は1、2週間で取り出しますが、苦味を入れたかったので敢えてつけときました。
ちょっと味見しましたが、飲めないアタクシでもかなり良い出来かと思いました。
香りさわやか、さっぱりとろりとほろ苦く。
夏はキンキンに冷やしてソーダ割りがおすすめかと思われます。
次回はウォッカで作ってみましょうかね。

ゆったりまったり

2009-08-16 | KOFUKU日記
さて、私は病気持ちさんです。
こんなことを書くと、きっと親しくわが身を案じて下さる方々の
「まぁた、あんなこと書いてっ!皆が不審に思うじゃないのっ!」
と心配半分怒り半分の声が聞こえそうな今日この頃。。。(^^;)

今日は終戦記念日でした。
戦争もののドラマやドキュメンタリーを観るたび、自分の姿と重なったりします。
なぜなら私は慢性的なものと、突発性の重なったPTSDを持っています。
最近は良く聞かれるけれども心的外傷ストレス障害というものです。
そう、戦争や災害、信じられないような辛い体験など、ひどい事件に直面したことの傷から起こる障害です。

障害と名がつくだけあり、生活に大きな支障が出ます。
この障害は心の状態によって、いろんな障害が併発します。
たとえて言えば「鬱」とか「パニック障害」とかですね。
そう言ったものが重なって時に命すら危うくなります。
なんせ原因も突発的なら、起こる発作も突発的(^^;)
いつ襲われるかわからないのでひどくなると普通に働くことすら困難になります。
さらに原因体験を幼児期とする慢性的なものになると、これがなかなか完治致しません。
とってもとってもやっかいなものです。

でもご安心を。人にはうつりませんから(^^;)
そういう意味では新型インフルエンザの方が脅威かと。。。
とにかく時間をかけて付き合って治していくものです。
類にもれず、私も残念ながら完治してはおりません。

え~、あんじゅさん、それで病気なのう???と声が聞こえてきそうですが、
そうなんですよ~(笑)ひ弱なの(爆)

というか、いつもびくびくしてるわけじゃあないです。
もちろん、状態が落ち込んでいる時は、解離症状や鬱なども起こるので、全く交信もできなくなっちゃったりしますが。
私も状態がひどくなると解離状態がひどくなります。
身体と心がばらばらになる感じです。
でもね普通に過ごせる時は過ごせるんです。
トラウマを掘り起こす原因がおこらなければ大丈夫。

私の症状は一時期、もっとも重体である、と言った状況でした。
そして今も根本的な状態はあまり変わらないと思いますが、表に出てくるものがずいぶん軽減されてきたように思います。
少しづつコントロールもできてきたのかなー、と我を励ます日々(笑)

私が今こうして人様の輪の中にいられるのは、とてもラッキーだったから。
その理由には以下のことがあげられます。

ちょうど状態が一番ひどく仕事もできなかった時、何とかしようとしてくれた愛に満ちた人々のたくさんの人の存在と、その人々からの生活への助けや言葉などがあったこと。

絶対に病人でいなければならなかった時期にハードな生活環境が病人でいることを許してくれなかったこと。

おかねが無くて病院に行けなかったから、薬を飲まずに済んだこと(笑)

どうしても起きた現実から目をそむけさせてくれない身近な人物がいたこと(^^;)

自分の使命の認識と愛を語り続ける意識が残っていたこと。

自分の命を削っても守らなくてはならない小さな命の存在(ぴーちゃん)があったこと。

とても素晴らしいお医者さんからの励まされる一言があったこと。

子どもたちという存在と関われたこと。

感謝の気持ちが消えなかったこと。

「私」を忘れなかったこと。

そんな事達が私の大きな助けとなり、そして今も同じように私を支えてくれています。
ありがたいことです。

この数年で私はずいぶんユルーイ人間になりました。
以前は倒れるまで突っ走る人でした。それも先頭に立って。
人を引っ張っていくのが仕事だと思ってました。
決して生身の自分を見せず、親友でさえも本当の私はわからない。
皆を守るためには身内から欺く意識でした。

いまも「思い立ったら吉日」「泣くより飛べ!」という精神は変わっておりませんが、病を患い、どうしたって一人では生きられなくなり、人様に甘えることもとっても大事なんだなーと知りました。
つまり人とは人と生きるものだと知ったのかなー。

だからって流されるままにいる、って風には思えなかったですね。
そういうユルさはどうしても違う気がしました。
ただ風に吹かれるままに、、、ではなく、意識を持って風に当たることが大事なんじゃないかって思ってるんです、私は。
この6年くらいの経験から、「私」を忘れないでいる事がどんなに大事なのかわかった気がします。
どんなに辛い境遇になっても、自分だけは手放してはならないと思う。
だからたとえばドラッグで我を忘れるくらいなら、フラッシュバックで辛くてもPTSDになる方が健全と私は思う。

ただ無理はしない。ってか出来ない(^^;)
今は7年前の私ができていたことの10分の1もできません。
これもまた、この持病のなせる技だったりします。
全部が全部ロースピード。
でもそれでいいと思えるようになってきました。
以前は出来ないってことにかなり焦りましたが。

無理するってのは人間的に当り前な行為、けど変な無理はしない。
それが私にはとっても大事だとおもいます。
例えばですね、今の私は自分の精神的に人様との交流や仕事が無理だなと思ったら立ち止まります。
昔はできませんでした。
突然、音信不通とかになっちゃう訳ですから勇気がいります(^^;)
(もちろん再開の時はちゃんと理由を告げて心から謝ります。)
手紙やメールなんかも「書ける」と思えるまでは書きません。
とってもとっても失礼なんですけどね。分かってるんですけどね。
でも究極の選択をする。
本当に気持ちをかけてくれる周りの人にだからこそ、本当に自分の気持ちが向いたときに心を捧げたいと今の私は思うんです。
言葉を羅列するのは簡単だからこそ、そうはしたくない自分がいます。
その自分も見詰めて行動を起こすことがこの病には大事だと思います。

私は恵まれて、子どもたちと関わり、そして教える機会を頂いています。
こうして、子どもたちと子どもと大人の体験をすることによって随分助けられています。
そう言ったチャンスも大事にしていくことかな、と思っています。

確かに今もこの持病が原因で生活大変だったりします。
それもね、仕方ないかなーと受け止められるようになりました。
それもこれも「ゆったりまったり」って心が生まれてきたからだと思います。
今はゆったりまったりを楽しむ時期なのでしょう。
じっくりと作品と向き合って作る手仕事のように。

とはいえ、このように理屈では納得できても、フラッシュバックなどの発作が起こればPTSDはとても辛いものです。
実際にはその苦しさはなってみないとわからないものかと思います。
けれど、察することや思いやることはできます。
多くの方がそういう方をサポートして下さるといいなあと思います。

同じ症状でお悩みの皆様が少しでも心安くいられますように今夜もお祈りしています。

そしていつも周りにいて下さる人々に心から感謝します。
ありがとう。

盆の入り~老後無事

2009-08-13 | KOFUKU日記
お盆になりました。
たくさんのご先祖さまがこの日を楽しみに
お家にお戻りになっていらっしゃることでしょうね。

時の彼方に住まわれる人々を想うとき、
そこに人生というドラマがあったことを思います。
死を観ることは生きていたという証しだなと思います。
なんというか、その証を立てる日まで颯爽と生きたいと願う自分がいます。

我が家にはお仏壇などもありませんし、
お盆の準備はこれと言ってしませんが、
2日ほど前からお戻りになられている方の
気配なども感じていたので、
天国に帰られた方々へ思いをこめて、
白玉のお団子をお作りさせて頂きました。

白玉粉をぬるま湯で丁寧にこねて、一つ一つ形を作り、
ゆであがったものを丁寧にまた水で洗って
つるんとした美味しいお団子になりました。
きなこと黒蜜とゆであずきの3種のお味です。
部屋の吊り棚の上にお供えさせて頂きました。
食べてくれると嬉しいなあ~(^^)

地元ではお供え物のお下がりを頂くと病気をしないと言って
子どもたちが頂く習慣があります。
今日のお団子も後でお下がりをぴーちゃんと分けっこしまーす(笑)

さて、昨日はお友達が

「あなたの幸せは私の幸せです」

と、素敵な言葉を贈って下さいました。
とても嬉しく、その言葉で幸せになりました~。
贈ってくださったお友達に感謝です(^^)

私もその様に周りにいる人、(生きている人も時の彼方に住む人も)
の幸せを思える人間でありたいと心から願う今日この頃です。


今日も好きな詩をひとつご紹介します。
颯爽と行きたい我の憧れです(^^)


「老後無事」   河上 肇

たとひ力は乏しくも
出し切つたと思ふこころの安けさよ。
捨て果てし身の
なおもいのちのあるままに、
飢え来ればすなはち食い、
渇きくればすなはち飲み、
疲れ来ればすなはち眠る。
古人いふ無事是れ貴人。
羨む人は世になくも、
われはひとりわれを羨む。



いいなぁ、シンプルでそれでいて清涼にて神々しい。
まるでぴーちゃんの境地だぁ!

こども~ドロシー・ロー・ホルトの詩から~

2009-08-12 | KOFUKU日記
すべての方に。


こども    
        ドロシー・ロー・ホルト


批判ばかりされた こどもは 
非難することを おぼえる

殴られて大きくなった こどもは
力に頼ることを おぼえる

笑いものにされた こどもは
ものを言わずにいることを おぼえる

皮肉にさらされた こどもは
鈍い良心の 持ち主となる


しかし
激励をうけた こどもは
自信を おぼえる

寛容にであった こどもは
忍耐を おぼえる

賞賛をうけた こどもは
評価することを 覚える

フェアプレーを経験した こどもは
公正を おぼえる

友情を知る こどもは
親切を おぼえる

安心を経験した こどもは
信頼を おぼえる

可愛がられ 抱きしめられた こどもは
世界中の愛情を 感じとることを おぼえる  

コトバのちから

2009-08-12 | KOFUKU日記
昨日は静岡地方で大きな地震がありました。
先日も大きな地震があったばかり。
また台風でも多くの方が災害に遭われたニュースを目にし
緩みがちな防災への心を引き締めさせられました。

災害に遭われた皆様が一日も早く心安くお過ごしになられますよう
こころからお祈りさせて頂きます。

今日はカンナちゃんのお家まで荷物運びをさせて頂き、
お陰で帰りに九十九里の美しい海を見ることができました。
夕方で台風の時だったので浜にはあまり人もなく
お陰さまでぴーちゃんはノードリードでおおはしゃぎ(^^)
嬉しかったのでしょう、笑顔で走り回っていました。
風になったのかと思うほどの勢いで。
おばちゃんはついていけませんでした(^^;)
この機会を下さったカンナちゃんに感謝です。


さて、ちょっとバタバタしていてしばらく更新できておりませんでしたが、
お陰さまで物ではなく(^^;)心の充実した日々を送らせて頂いております。
先週末は言葉のクラスに二人の大人の生徒さんがいらして下さいました。

私がシェアしている言葉のお教室、シアターワークのクラスは、
演劇的な基本レッスンを取り入れて体験から学んでいくものですが、
発声訓練だけ、技術の習得だけが目的ではありません。
どちらかというと、もっともっと「国語」的なものを大事にしています。

言葉は心と体と深く連動しています。
心の流れ、身体の在り方を無視しては言葉になり得ません。
特に嘘のない子どもたちや素直な魂を持つ
ダウン症の方々などにははなおさらそこが大事だと思っています。

そのために身体で言葉を感じたり、一つの言葉や動きから
そこにある意味を深く感じてみたり
そう言った体験を大事に大事にしています。

そして言葉の奥にある本当の意味を魂が自然に感じながら
心ふるわせながら生きていけるようになれればいいよなあと思っています。

シアター(ミュージカル)ワークでは同じように学び、
それを技術的に意識的に行えるようにすることが目的ですが
それが決して嘘にならない事、その「演じる」瞬間を
真実にすることを大事にお伝えしています。

つまり言葉を話す時は心と体をつなげて、
ちゃんとしゃべることが大事だと思っています。
下手をすると演技というものは「状況の説明」の様な
言葉の抑揚の羅列になってしまいますが
そうではなくてちゃんと「言葉をしゃべる」ことを目指しています。

ですから私のシェアレッスンはとても「国語的」なわけです。

そしてレッスンでは生徒さんやお母さんの一挙一動、
一言一言が私の学びとなっています。
この生徒さんからの学びがなければレッスンは形になりません。
この間来て下さった二人とも素晴らしい生徒さんで
たくさんのことを教えてくれました。
そのまなびから向かい合う生徒さんの心に
少しずつでも近づいてゆくことができるのです。

先日のレッスンでは心と体がつながることが
とても大切であることなどをお話しさせて頂きました。
「生きている言葉」を話すことが大切、という事のシェアです。

そして、その中でこんな話をしました。
ある時、こういうシーンを目にしたんです。

お母さんによる絵本の端折り読み(^^;)

正直、がっかりしました。ある意味、ショックでした。
私にはありえない事と思いました。

子どもさんは自分で本を探し、喜んでお母さんのところに持っていき
「おかあさん、これ読んで!」と言いました。
お母さんは「はいはい」と言って、読みだしたはいいけれど
内容も文章もとばすとばす(^^;)

ええ、もちろん筋はあってるんですよ。
お母さんが大変なのもわかります。

けど、心を鬼にして(^^;)いいますがあ
「本を読む、読み聞かせ」って言うのは
私は端折り読みなんてあってはならないと思っています。

だってね、きっとそれじゃ大事なものは何も伝わらない、と思うのです。
大事なのはあらすじを伝えることや読んであげる行動ではなくて
読み手が「言の葉」を大事に伝えることだと思うからです。

たぶん、私が物書きで、周りにもそういう人が多くて
そして画家さんや芸術家も多いからそう感じるのかも知れません。

物書きは自分の人生で得たすべての感覚から生まれた
言葉の一つ一つに思いをこめて言の葉を綴ってゆきます。
その音の一つ一つや文章の流れにも美しさを生み出そうとして。

また画家や芸術家は、その言葉を心と体全部で受け止め
そして自分の才能の中に形を生み出してゆきます。
絵本や絵、ダンス、歌、演劇、手工芸、エトセトラ。
それらは全て魂の表れです。

絵本の読み聞かせとはそのような言葉を、
本を読む人が全ての感覚を持って受け止め、
それを目の前にいる相手に伝えることだと思います。

けれど端折り読みでは、その文章の美しさは失われ、
その美しい文章に導かれて描かれた絵の美しさも半減します。
絵本は文字と絵が一つで完成品なのだから。

「お母さん、これ読んで!」という、
うつくしいものを求める心がそこあるのに、
読み手の心の都合でいいかげんなものを渡してしまう。
それは悲しいことです。
それでは子どもは美しさを知るチャンスを失います。
それにそれらを生み出した人にもとても失礼ではないだろうか、と。

まあ確かに、すべてをポジティヴに考えるなら
読んであげないよりは読んでるだけマシとかって考え方はあるけど
私としてはそんな読み方しかしてもらえないなら、
自分で読んで感じた方がいい、かなー。
だって、読み手が入るってことは、その人の在り方が入ってきますから。
中途半端に読めば、相手にもそれが伝わるからです。

だからコトコトバではお母さん達にこうお願いしています。
どうか本は端折り読みしないでください。
読むのが上手じゃなくても、突っかかっても良いのです。
お母さんも言葉や絵を感じながら読んでください。
知っているお話は自分の中の感動を渡すような気持ちで読んであげてくださいね、と。

お母さんや読み手さん自身のなかで
心と体をつなげて読んであげて欲しい。
そうすると本の持つ美しさだけでなく、
読み手さんのこころの美しさも伝わって
絵本は更に素敵なお話しになると思います(^^)

お母さん達にも言葉を感じるという体験をして頂きましたが
お子さんと同じくとてもピュアで、心ふるわせて下さいました。
ほんの一言、ほんの一節だけれども、
一度感じるとすべてに愛が行き渡ります。
私はそれを知っています。
言葉に愛の魔法がかかるのですよ。
そして言葉はちからとなります。
それはおおきな愛のちからです(^^)

私のレッスンは遊びに近いです。進みもゆっくりです。
ぱっと成果も上がらないけれど、いつか綺麗な花が咲く、
私はそう信じています。
いつもおいで下さる方に心より感謝申し上げます。

そうそう、こないだ嬉しかったことがありました。
まもちゃんって生徒さんがレッスン中にいきなり
「せんせい、大好き~♪ せんせい、大好き~♪」
って、町中に響くようないい声で歌ってくれたんです。
とっても嬉しかったです。
「私もみんなが大好き~♪」ですよ。
こころある言葉ってね~、愛ですね~。


さて、今週末はお家でも変化がありました。
写真はサロンにあるテーブルさん。
週末に帰ったら蜜蝋ワックスが塗られて磨かれておりました。
もったいなくて、ものが乗っけられなくなりました(^^;)