ゆうわファミリーカウンセリング新潟 (じーじ臨床心理士・赤坂正人)     

こころと暮らしの困りごと・悩みごと相談で、じーじ臨床心理士が公園カウンセリングや訪問カウンセリングなどをやっています。

面会交流・コロナ・子どもたちの悲しみ-「おとな」の親になるために

2024年11月18日 | 「おとな」の親を考える

 2020年5月の日記です

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 夕方のニュースを見ていたら、別れた親子の面会交流がコロナのせいで、回数が減っている、という話題が出てきた。

 別れた親子の面会交流は、なかなか実現が難しいし、実現しても、月に1回とか、2か月に1回とかが多いが、最近、コロナを口実にその実施が減らされている、というものであった。

 離婚後の父母の関係が悪いままだと、面会交流は、たとえなんとか決められても、様々な理由をつけられて、実施されなく傾向がある。

 今回のコロナは、監護親にとっては、面会交流を断わるかっこうの理由になってしまっているらしい。

 もともと、面会交流を嫌う監護親は、不安の高さから面会交流に消極的なことが多いが、それにコロナが不安を煽ってしまっているのだろうと思う。

 しかし、可哀そうなのは、子どもたちである。

 こういう不安の高い時こそ、子どもたちには、監護親だけなく、別居親からも、見守られているんだ、という体験が必要であろう。

 どんな状況の時であり、お父さんとお母さんが別れたにせよ、自分たちを見守っていてくれる、という、そういう安心感が、子どもたちには大切だと思う。

 コロナに負けずに、双方の親が「おとな」の行動をしてほしい、と切に願う。         (2020.5 記)

 

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池澤夏樹『タマリンドの木』(1999・文春文庫)-おとなの真摯な恋愛を描く小説です

2024年11月18日 | 小説を読む

 2020年11月のブログです

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 本棚を眺めていたら、池澤夏樹さんの小説『タマリンドの木』(1999・文春文庫)が目に入ったので、久しぶりに読みました。

 おそらく20年ぶりくらい(池澤さん、ごめんなさい)。

 当然(?)、なかみは忘れていて、またまたどきどきしながら読みました。

 池澤さんにはめずらしく(?)すごい恋愛小説(池澤さん、ふたたびごめんなさい)。

 それもかなり純粋なおとなの恋愛小説です。

 66歳のじーじでもどきどきしながら読みました。

 例によって、あらすじは書きませんが、エンジニアの男性と海外ボランティアの女性の恋。

 一緒に住むことはとても難しい男女の切ない恋物語が、すごく真面目に展開をして、はらはら、どきどきしてしまいます。

 物語のちからはすごいです。

 じーじでも本当にどきどきしてしまいます。

 この男女が、真面目に自分たちのこと、そして、周囲の人たちのことを考えているからこそ、のちからなのでしょう。

 読んでいると、汚れきったじーじのこころも、少しだけピュア(?)になったような錯覚がします。

 それが良質な小説や物語のちから。

 あらためて感じました。

 いい小説が読めて、今日も少しだけ幸せです。        (2020.11 記)

 

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だんご3兄弟が家庭裁判所で大活躍をした思い出-面会交流の試行の経験から

2024年11月17日 | 「おとな」の親を考える

 2023年5月のブログです

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 時々、暇な時に、昔の家庭裁判所での仕事を思い出したり、考えたり、反省をしたりすることがある。

 例えば、だんご3兄弟が面会交流で大活躍をした(?)20年以上も前の思い出。

 お父さんがワンマンで暴力的ということで、子どもを連れて実家に帰ったお母さんに対して、お父さんが子どもに会わせてほしいと求めた調停。

 話し合いは難航をしたが、一度、家庭裁判所でお試しの面会交流をしてみようということになった。

 お父さんが待っているお部屋に到着した4歳と2歳の女の子たち、お母さんと一緒に部屋の隅で固まったまま。

 お父さんが、子どもたちに呼びかけても、動かない。

 お父さんが、部屋の真ん中にあるおもちゃや絵本で誘うが、見向きもしない。

 小さいなりに、女子連合の意地(?)があるらしい。

 しかし、そのうちに、2歳の女の子がおもちゃの魅力(?)に誘われて、部屋の真ん中に移動し、お父さんに背を向けて遊びだし、お姉ちゃんも一緒に遊ぶ。

 ところが、2歳の女の子がだんご3兄弟のお人形を振り回していると、おだんごが一つ外れてお父さんのほうに転がる。

 お父さんが、拾って、ほら!と女の子に渡すと、女の子は受け取り、お父さんと一緒に遊びだす。

 それを見て、お姉ちゃんも遊びに参加、お母さんが見守る中で、父子の面会交流ができるようになった。

 こういう場面を見ていると、じーじは、世の中には本当に神さまがいるのかもしれないなあ、とつくづく思ってしまう。

 面会交流では、こんな素敵な偶然がよく起こる。不思議だなあ、と感心をしてしまう。

 じーじはキリスト教徒でもイスラム教徒でもその他の教徒でもないが(?)、世の中にはきっと子どもたちを守ってくれる神さまがいるのだろうなあ、と思う。

 そして、そういう神さまに守られて、面会交流などもできるようになるのかもしれない、と思ったりする。 

 臨床のちからとはそういうことなのかもしれない。         (2023.5 記)

 

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大島亮吉『山-随想-』1978・中公文庫-大正時代の大雪山登山の記録です

2024年11月17日 | 随筆を読む

 2022年11月のブログです

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 大島亮吉さんの『山-随想-』(1978・中公文庫)を再読する。

 ここのところ、大雪山の動画を観ていて、その中にクワウンナイ川という沢を遡る動画をいくつか発見、その沢の美しさに感動したが、以前たしか大島亮吉さんという昔の登山家がクワウンナイ川を遡った本を読んだことがあるのを思い出した。

 それで読んでみようと探したが、例によって、本棚の中になかなか見つけることができず、半月くらい探して(?)ようやく発見、再読をした。

 大島さんは慶応大学の学生だった大正時代に大雪山の山々を登った人。

 当時、大雪山には登山道がなく、沢から登っていたようで、大島さんはその頃、大雪山を研究していた小泉秀雄さん(上川中学校(今の旭川東高)の先生)の登山記録などをもとに登山をする。

 本書の中の「石狩岳より石狩川に沿うて」という一文にその記録が記されているが、大島さんの大正9年夏の11日間にわたる山歩きの記録で、とても感動的だ。

 一行は4人で、まずは松山温泉(今の天人峡温泉)からトムラウシ山を目指してクワウンナイ川を遡る。

 クワウンナイ川の滝の瀬十三丁と呼ばれる川床の描写がとても美しい。

 トムラウシに登頂後、石狩川の源流から石狩岳に登頂、その後、石狩川を下る。

 当時、ここらあたりは奥山盆地と呼ばれ、旭川の近文アイヌの人々がイワナ釣りやクマ狩りに訪れていたようで、大島さんらと彼らとの交流がとても印象的だ。

 大島さんのアイヌへの尊敬の念がひしひしと伝わってきて、こういうすばらしい日本人もいたのだなあ、と感動する。

 その後、大箱・小箱の難所をなんとか通過し、層雲別(今の層雲峡)の温泉に到着する。

 読んでいると、登山や山歩きというよりは探検という感じだが、読んでいるととてもわくわくして面白い。

 こういう人たちの貴重な報告の積み重ねがあって、今があるのだなあ、と思うと、歴史の大切さを感じてしまう。

 なお、本書の中にある「北海道の夏の山」という一文も同時代の十勝川上流の山歩きと川歩きの記録で、こちらにもアイヌの人々が登場し、なかなか感動的である。

 山好きの人に限らず、地理好き、歴史好き、民俗好きの人にも、とてもよい本だと思う。        (2022.11 記)

 

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父母同席による別れた親子の面会交流-別れた後のお父さんとお母さんと子どもの新たな関係づくりをめざして

2024年11月16日 | 「おとな」の親を考える

 たぶん2015年ころのブログです

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 いろいろなご事情により,別居や離婚することになってしまった親子の面会交流の話し合いは,かなり難航をすることが多く,時間もかかることが多いと思います。

 そんな時に第三者の援助者が間に入って,試しに別れた親子の面会交流を行なってみると,時々ですが,事態が打開できることがあります。

 じーじの経験ではそういうことは結構多いと思います。

 また,別居や離婚をした親子の面会交流の方法ややり方にはいろいろな形がありますが,じーじの場合には父母同席での経験が多く,その形や方法がかなり効果的だったと考えています.

(ただし,少なくとも,子どもさんの前では喧嘩をしないでいられるお父さんとお母さんでなければ難しいのですが,幸い,子どもさんの前でも喧嘩をしてしまうようなお父さん,お母さんは少数です。)

 じーじが別居や離婚をした親子の面会交流を同席で行なったのは,子どもさんが幼児で,同居親から離れられないケースが多かったという理由からが多かったからなのですが,結果的には父母の同席の形が良かったと今では考えています。

 そして,それは,まだ,うまく言葉にできていませんが,実は結果的だけでなく,本質的な問題を含んでいるような気もしています。

 じーじが書いて活字にしていただいた二つの論文(赤坂2006,同2011)はいずれも父母同席の面会交流の試行のケースですし,大学院の修士論文(赤坂2014)も同様です。

 そのようなケースでは,最初は面会交流を求めている別居親が子どもの同居親との同席を嫌がって,早めに別席にしてほしいと希望をするようなことも多くありますが,しかし,面会交流の試行を始めてみると,時間の経過とともにそういうこともなくなることが大半です。

 別居親は,子どもさんと楽しく遊ぶうちにそんなことが気にならなくなってしまうのだと思いますし,同居親は近くにいて,笑顔で安心をして子どもさんを眺めていられることがいいのだろうと思います。

 いずれにせよ,子どもさんが安心をしてじゅうぶんに楽しめる面会交流やその試行が一番です。

 今後もよりよい面会交流の援助活動を行なっていきたいと思います。        (2015?記)

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 2021年1月の追記です

 父母同席の試行の場合も、あまり介入はしないで、親子のありかたをそばで眺めているのが原則でした。

 ただし、監護親が別居親の遊びかたや行動をあまりに批判的に見ている時には、家族療法のリフレーミングの技法で、監護親に違った見方の可能性を提示してみるようなこともしていました。

 いつもとはいえませんが、たまには親ごさんの間の雰囲気が変化し、子どもを含む雰囲気が変わることもあったように思います。         (2021. 1 記)

 

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沢木耕太郎『深夜特急5-トルコ・ギリシャ・地中海』1994・新潮文庫-ひとり旅を読む

2024年11月16日 | 随筆を読む

 2018年のブログです

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 またまた本棚の隅に懐かしい本を見つけました。 

 沢木耕太郎『深夜特急』。

 本の帯に、大沢たかおさん主演のテレビ版『深夜特急97』の宣伝文がありますので、読んだのは1997年のようです。

 ようです、というのは、例のごとく、ほとんど記憶がないわけなのです。

 それでも、1~4巻の部分はところどころ、かすかに記憶があったり、読んでみると思い出すところもあったりしたのですが、この5巻のトルコとギリシャのところは全くといっていいほど記憶がなく、まるで新刊本を読むような感じで読んでしまいました。

 1997年、じーじが40代前半の頃、たしかに体調が悪くて、やや人生の危機的状況ではあったのですが、こんなに記憶がなくなるものなのでしょうかね?

 そういえば、同じ頃に読んだ吉本ばななさんの『キッチン』もほとんど記憶が飛んでいましたので、この頃は本当に大変だったのかもしれません。

 さて、本書、沢木さんらしく、ユーモアとガッツでかなりタフな旅をを進めています。

 トルコについては、以前、村上春樹さんの『雨天炎天』を読んでいて、なんとなく怖い国というイメージがありました。

 もっとも、村上さんの場合はトルコの兵隊さんとのやりとりが多かったせいかもしれず、一方、沢木さんはトルコの普通の人々との交流が多く、人懐っこいトルコの人々の姿が描かれています。

 ものごとというのはやはり一方向から見るだけでは不十分なようで、全体像を把握するためには多方向から見てみることが大切なんだな、と改めて考えさせられます。

 トルコもギリシャも、現地の人々と沢木さんの交流は素敵なお話が多く、楽しく読めます。

 沢木さんの風景描写や美術の描写も本書の魅力のひとつで、その文章力にはほれぼれします。

 あっという間に読み終わってしまいました。

 いい読後感で、続きを読みたくなりましたし、さらには、4巻のシルクロード編もじっくりと読み直してみたくなりました。

 年末年始は沢木さんの『深夜特急』シリーズを読んで過ごすことになるかもしれません。       (2018. 11 記)

 

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赤坂正人「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」2011・『遊戯療法学研究』10巻1号-面会交流を考える

2024年11月15日 | 「おとな」の親を考える

 たぶん2015年ころのブログです

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 じーじの二つ目に活字にしていただいた論文です。

 今から数年前のことです。

 一つ目の論文と同様,家庭裁判所での面会交流の試行の経験をもとにして考察をしました。

 紹介をさせていただいたケースは,(プライバシーの保護のために)いくつかのケースを合わせた架空のものですが、父母同席による面会交流の試行です。

 実家に戻ったお母さんが久しぶりに子どもさんに会えたものの,最初は声をかけても子どもさんに背を向けられてしまうのですが,3回目からやっと子どもさんと一緒に遊べるようになるという感動的な事例でした。

 遊ぶことのもつ力,遊ぶことに潜在している創造性,親子が二人でいてかつ一緒にいることの意味などについて,ウィニコットさんやオグデンさんなどを参考にしながら考えてみました。

 父母同席の面会交流は最初はなかなか苦労をしますが,うまくいくととても大きな変化をもたらすことが多いと思います。

 当時は全く気づいていなかったのですが,実は全国的には家庭裁判所での面会交流の試行は父母別席の形が多く,じーじの実践していた父母同席の面会交流の試行は独特な形だったようです。

 あとになってそのことに気づき、その理論化や言語化,周囲への説得に苦労をしたことを思い出します。

 いずれにせよ,父母同席による面会交流やその試行などについて,どのような配慮や工夫などが大切になるのか,これまでの経験を振り返り,考え,今後も思索を続けていきたいと思っています。         (2015?記)

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 2021年1月の追記です

 このケースも、前の論文のケースも、家庭裁判所での面会交流の試行を5回行なって、調停が成立し、その後はお父さんとお母さんだけで面会交流ができるようになりました。

 あとで知ったことですが、しかし、こんな例はまれで、普通、家庭裁判所での試行は1回きりが多いようで、お偉いさんからあきれられました。

 しかしながら、子どもにとっては、面会交流の試行はかなり緊張をしいられるできごとで、1回目から別れた親ごさんと遊べる子どももいれば、数回目でようやく遊べるようになる子どももいると思います。

 子どもの状態に応じた柔軟な臨床が大切になるのではないかと思います。         (2021. 1 記)

 

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マスコミは「警察官」さま(?)か?あるいは「裁判官」さま(?)なのか?・その2-じーじのひとりごと

2024年11月15日 | ひとりごとを書く

 2022年11月のブログです

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 ニュースを見ていたら、またまたマスコミ「警察官」さま(?)か、あるいは「裁判官」さま(?)の映像を見てしまった。

 ところは、大阪のとある開かずの踏切。

 1時間に踏切が閉まっているのが54分というとんでもない踏切。

 そんな踏切を放置している行政や鉄道会社の責任はとてつもなく大きいと思うが、そこに出現したのがマスコミ「裁判官」さま(?)。

 以前も指摘をしたが、違反をしている人にインタヴューをする。

 警報機が鳴っているのに踏切に入る人に、「危ないと思いませんか」「なんで警報機が鳴っているのに入るのですか」と小学生でもするような幼稚なインタヴューをする。

 インタヴューをされたあるおじさんは「待つのがいやなんだ」「みんなやっている」と当然逆ギレ。

 気分の悪いニュースとなった。

 テレビ局の記者は「警察官」さま(?)か「裁判官」さま(?)なのか。

 高い競争率を突破して記者になったのに、そんな質問しかできないのは悲しい。

 ここはやはり、「歩道橋があると助かりますよね」とか「地下道があるといいですよね」と聞いてほしいし、「行政はいつになったら高架にするんでしょうね」と確認をしてほしい。

 そういう声が、行政や鉄道会社の改善の動きを加速させるかもしれない。

 それがマスコミの仕事ではないのだろうか。

 そしてよく考えると、要は聞き方だけでなく、マスコミが誰により添っているか、という心構えの問題ではないのだろうかとも思う。

 マスコミは「警察官」さま(?)や「裁判官」さま(?)ではなく、庶民により添った、弱い者の味方のマスコミになってほしいな。        (2022.11 記)

 

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赤坂正人「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」2006・『臨床心理学』6巻3号-面会交流を考える

2024年11月14日 | 「おとな」の親を考える

 たぶん2015年ころのブログです

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 もう10年近く前のことになりましたが,じーじの初めて活字にしていただいた論文です。

 当時,家庭裁判所の臨床現場で苦労をしていたことや工夫をしていたことを文章にしてみました。

 その頃,『臨床心理学』誌の編集長だった河合隼雄さんが,臨床現場で忙しくて論文を書けない人でも気楽に投稿をしてください,とのお誘いを誌面でされていたことがあり,ずうずうしくも拙い文章を送ってしまいました。

 新潟の片田舎で,中央の流行も知らずにこつこつと実践してきたことを後輩に書き残したいという気持ちもありました。 

 今,読み返してみると,記述がかなり不十分な部分が目につきますが,その後も当時とやっていることはあまり変わりません。

 変わったのは少しだけ理屈や理論を言えるようになったことくらいでしょうか。

 面会交流はご存じのように家庭裁判所の調停のなかでもとくに難しい話し合いのひとつです。

 そこでいろいろな条件は必要ですが,ためしに面会交流の試行を行なってみることで,それまで頑なだった親ごさんの気持ちが和らぐことがよくあります。

 そこらへんのことをウィニコットさんを中心に精神分析の考えなどを参考に考察してみました。

 単に面会交流がうまくいくことだけではなくて,その中での子どもさんや親ごさんの成長も考えてみました。

 そして,むしろ大切なことは,そこでのお父さんとお母さんの精神的な成熟と,そこへの周囲からのいくばくかの心理的な援助のあり方なのだと思います。

 今後も力のある心理臨床家をめざして努力していきたいと思います。       (2015?記)

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 2021年1月の追記です

 臨床心理士として個人開業をしてからも、面会交流の相談や援助を続けています。

 臨床の形式から、別れた子どもさんと何とか会えないか、というご相談のカウンセリングが中心となっています。

 子どもに会わせてくれない監護親への攻撃心が強いクライエントさんが多く、心情は理解できますが、そのままでは面会交流が実現できないので、少しでもマイルドになるような援助が多くなります。

 監護親の大変さにも配慮できるようになると、少しは展開も違ってきそうな気がします。       (2021. 1 記)

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 2024年11月の追記です

 この論文でご紹介させてもらった事例は、男の子とお父さんの試行の事例で、もう今から25年以上も前のもの。

 当時、4~5歳だった男の子も、今では30歳くらいになっているのではないでしょうか。

 その後の情報はまったく知るすべもありませんが、少なくとも男の子の名前をその後、地元の家庭裁判所の少年部で聞くようなことはなく、多難な思春期もなんとか無事に乗り越えたようです。

 おそらくは今頃、お父さんになっているであろう男の子が、いいお父さんになられてることを切に祈っているじーじです。      (2024.11 記)

 

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トランプくんは本当に危険なじいじいだった!-じーじのじいじ日記(2024.11.14)

2024年11月14日 | じいじ日記を書く

 2024年11月14日の日記です

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 じいじいやじーじやじいじが氾濫している日記です。

 アメリカ大統領選挙で当選が決まったトランプくん、年寄りのせいか、まだ正式に大統領になったわけでもないのに、せっかちに動いています。

 他人を非難して、差別と分断をさらに推し進めるだろうことは予想していましたが、ロシアの侵略を容認することまではじーじも予測していませんでした。

 ウクライナのロシア占領地に沿って非武装地帯を作ると主張しています。

 ウクライナとロシアの国境にではなく、ウクライナ領土内のロシアが現在、違法に、軍事力で占領をしている地域に沿って、非武装地帯を作って、停戦にしたいらしいです。

 何を考えているやら?

 ロシアの占領地がいつからロシア領土になったというのでしょうか?

 まったく無謀な提案です。

 ロシアの侵略の容認です。

 ロシアの力による支配の容認です。

 考えてみれば、トランプくんの政治も力による支配です。

 敵を徹底的に非難して、人格を否定し、差別をして貶めます。

 そこには人間の尊厳のかけらもありません。

 自分が儲かり、崇め奉られることだけが目標で、民主主義の制度を利用した独裁者の一歩手前です。

 独裁者のプーチンくんや金正恩くんと仲がいいわけです。

 ロシアによるウクライナの占領の解決は、ロシアの撤退と賠償金の支払いが原則でしょう。

 それがどうしても無理というのなら、ロシアが不法に占領をしているクリミア半島も含めて、国連の監視下での住民投票で帰属を決めるべきでしょう。

 ロシアが不法に占領をしているウクライナの領土に住む人たちが、どちらの国家を望むのか、それとも、独立を望むのか、住民の意思が一番大切になります。

 それすらできないような国連では、意味がありませんし、アメリカはそういう働きかけをすべきでしょう。

 少なくとも、ロシアの力による支配を容認してはいけません。

 そんなことをすると、プーチンくんは次にモルドバやジョージアを狙うでしょう。

 トランプくんの悪政がプーチンくんや金正恩くんの野望に加担してしまうことになります。

 いくら独裁者一歩手前のトランプくんでも、それだけはしてはいけません。

 トランプくんが危険なじいじいであることはわかっていたのですから、ここはじいじいのメンツにかけて頑張ってほしいです。

 そうしたらノーベル平和賞も夢ではないかもしれません(?)。

 危険なじいじいがみんなの心配どおりに暴走をしてしまったら、民主主義の破壊です。

 せめて、独裁者の仲間入りをしないで、大統領の任期を終えてほしいなあ、と切に願っています。

 そして、できれば、決して儲からないはずの在日米軍をこの際、引きあげてくれると、もっとすごいです。

 日本国民は、トランプくんを尊敬してくれるかもしれません。

 汚名挽回のチャンスですよ!トランプくん。        (2024.11.14 記)

 

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