ばもら~。どうもこんばんは、そうだいです。今日も暑かったですね……みなさま、体調もそこなわずにお元気でいらっしゃいますでしょうか?
暑いは暑いんですけど、まあまあ、今のところ私の町はさほどヒドいということもなく、適度に風も吹いて適度に夕暮れ時あたりから気温がさがってくれる常識の範囲内の夏におさまっていてくれているような。これからがこえぇよ~。8月フォーウッ。
高校球児はすげぇな、ほんと。こんな状況で全力を出し切らなきゃならんのですからね。そりゃかりんとうみたいな容貌になっちゃいますよ。燃えつきろォ~。
話は変わるんですけど、宮尾すすむさんが亡くなられましたね。
私、はっきり言って全盛期の宮尾さんは知りません。ギリギリ1980年代生まれだったためかTV番組の司会をバリバリやっておられた宮尾さんを観た記憶はとんとなくて、もっぱらCMに出ていた姿か、そのマネを脈絡なく突然しだす井手らっきょさんしか観たことがなかったのです。
でも……好きだねぇ~、あの「ハイッ!」てやつ。意味ねぇ~。でもなんか真剣にやってる~。ホント好きでした。一発芸は「行為の徹底的な意味のなさ」と、「本人にしか筋の通っていないそこでそれをやる必然的な理由」という両極端な価値観が正面切ってぶつかりあうところがいいんだろうなぁ、と子供心に感じていたものです。そういう意味では「ガチョ~ン」とか「アジャパー」の系譜を継ぐ正統な「昭和最後の一発芸」だったんですねぇ。
またお1人、昭和の「うさんくささ」を体現できる方がこの世を去ってしまいました。非常に残念です。
いや、TVであれラジオであれ、ショウの司会者の「うさんくささ」って、すっごく大事だと思うんですよ。だいたい、観た人全員が感動できたり全員が笑えたりするエンタメなんてないんですから。観た人それぞれが信じたり疑ったりいろんなことを考えるのが「情報」の正しい受け取り方だと思うので、それを提供する顔も、観る人に注意をうながす「うさんくささ」があった方が親切だと思うんです。そういう点でも、宮尾さんのオーラには「誠意あふれるうさんくささ」があって芸能人こそ天職だったんだろうなと思うんですね。
(顔の前や周辺で両手を高速で交差させてからビッとキメて)ハイッ、ハイッ、ハイッッッッ!! R.I.P.
しゃてしゃて、そりでは今回も、いよいよ佳境に入ってきたような気がする「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の続きにまいるといたしましょう。
もうね、いよいよ5年以内にせまってきましたから、2011年が。今月中には終わる……かなぁ!?
前回はいよいよモーニング娘。の様相が変化してきた2005~07年のおもなハロプロ関連トピックをあげてみたんですけど、まずはやっぱり、モーニング娘。のメンバーの顔ぶれというおおもとの所が急激にガラガラッと変わったことがわかりますね。
2007年5月のよっすぃ~こと4代リーダー吉澤ひとみの卒業をもって、ついにミリオンヒットを連発したころの黄金の1999~2000年に在籍していたメンバーが全員グループを去ることとなったのです。
とは言っても、中澤・飯田・矢口といった元リーダーの面々はソロ活動を通して同じハロプロのメンバーとしてモーニング娘。とは常に近い距離の場所におり、TV番組でも当たり前のように共演している姿がしょっちゅう見受けられたので、さほどハロプロ自体がさみしくなったというイメージは持たせないものとなっていました。卒業したばかりの吉澤前リーダーと石川元エースもそれぞれ「ガッタス・ブリリャンチス(ならびに音楽ガッタス)」と「美勇伝」という形で強力に後輩たちをサポートしていました。
こういった点から見ると、2005~07年は「新生モーニング娘。」「Berryz工房」「℃-ute」といったハロプロ次世代グループを、なっち・ごっちん・あややといったソロアイドルやモーニング娘。在籍経験者が顔となったユニットやそれら全体がシャッフルされた期間限定のスペシャルユニットが盛り立てていくという新体制ができあがった理想的な時期となっていたのです。
だが、しかし。
実のところ、そういったビッグな世代交代がせちがらい芸能界の中でスムースに進むはずもなく、だいたい2005年の矢口リーダーの電撃脱退あたりから加護ちゃんのハロプロ謹慎・アップフロント解雇騒動、モーニング娘。5期メンバー紺野・小川のちょっと早い卒業や藤本リーダーの電撃脱退にごっちんの不幸なハロプロ卒業(翌2005年の事務所移籍)と、ちょっと立て続けにさまざまな形での「退場劇」が演じられたことは、少なからず世間に「あぁ……ある時代が終わろうとしてんのかねェ。」というよくない空気を広げるものとなりました。
いっぽうで7期にあたる久住さんや8期となる光井・ジュンジュン・リンリンといった新たな面々もどんどんモーニング娘。に加入していったわけなのですが、まぁ~成長しながらトップアイドルという地位を守り続けていかなくちゃならないんですから、大変なもんですよ。
特に、1回分のオーディションがまるまる「なしよ」になった上で鳴り物入りで新エースとして登場してきた久住さんはがんばったことでしょう。
しかし、久住さんって、圧倒的にビジュアルが「浮きます」よね……いや、これは悪いことじゃないですよ!? むしろスターの条件ですよね。
まぁ~とにかくあの典型的な「あま~い」顔立ちが古風なんですよ。ここでいう「古風」とは、戦前の美人顔とか平安時代の美人顔とかじゃなくて、「1980年代」にもてはやされたアイドル顔って感じがするんですけど、どうでしょうか。あのたれ目が気になる気になる! どうしても目がとまってしまいます。
映画の『フォレスト・ガンプ』みたいに、CG映像処理でおニャン子クラブの中に久住さんがまじってても違和感ないくらいですよね。
いやぁ~その手がまだ残っていたか!という感じで、はや20名ほどの美人、個性的、さまざまな顔ぶれを数えていた中でも、さらに今までにないタイプの新エースを迎えたモーニング娘。だったわけなのですが、実のところ、ど~もこの時期での久住さんの加入は1999年でのごっちん加入ほどのセンセーショナルな効果をあげるものにはなりませんでした。
しかしその原因は、久住さんの素質や他のメンバーたちとの相性だなんだといった1人や1つのグループの責任で語られる規模のものではなかったように思えます。久住さんと他のメンバーとの相性については、ライヴやその他の番組でのからみかたを観れば問題なぞあるはずもないことは一目瞭然ですし、久住エースをむかえての2年半の9名メンバー体制が、15年にもなろうかというモーニング娘。の歴史の中でもっとも長く固定されたものだったこともその証拠となるでしょう。だいたい久住さんの「浮き方」はグループの批判にはならないでしょう。だって「久住さんの容姿が浮かない集団」なんか、芸能界であれ普通の世界であれ当時の日本に存在していたでしょうか、いやない。
それだけに、ソロでアニメの主人公として歌を唄うという、たとえプロのアイドルだったとしても生半可なヴィジュアルでは1秒たりとてもたないような荒行をやってのけた「月島きらり」としての活動を、久住さんがこれ以上ないようなフィット感で楽しんでいたのはまさに本領発揮というか「モーニング娘。以外にこんな仕事もあってほんとによかったね~。」というか。ヒットもしてたしねぇ。や・ら・な・い・か!
だとしたら、この2005~07年におけるモーニング娘。の動向がいまひとつそれまでに比べてパッとしなかったのはなぜなのか。
そりゃもうやっぱり、モーニング娘。というかハロー!プロジェクト全体が、いろんな意味でファンやお茶の間から「遠い存在」になってしまったからだったのではないでしょうか。
いや、ハロプロはスケジュールとしてコンサートツアーやミュージカルを引き続いて精力的におこなっており、その点ではファンの期待にこたえることを決して忘れてはいませんでした。
問題は、そのころからハロプロなりつんく♂さんなりが打ち出してきた「理念」のようなものが総じていささか大きすぎるものになったのではないかと。
2003年ごろからハロー!プロジェクトは日本のスポーツ業界の振興にも大いに参入してくるようになり、女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」を応援するかたちでの本格的なフットサルチームの運営や、設立したばかりのプロ野球東北楽天イーグルスの公式応援歌担当をつとめ、そうかと思えばごっちんやあややが総理大臣や外国来賓のディナー会場で歌唱したり犯罪防止キャンペーンの大使をつとめたり、2004~07年には地球温暖化・環境破壊問題を啓発するエコイベント「熱っちぃ地球を冷ますんだっ。文化祭」を大々的に主催したりして、次第に大きな「国民的アイドル」としての仕事をになうようになっていきました。
かと思えば、2006年の暮れにはつんく♂さんが「アジアの中の日本としての新しいモーニング娘。の形を表現していきたい。」という、ちょっと唐突ともいえる発言をしており、現に翌07年にはアジア的・世界的な規模でのコンサート活動や中国人2名のメンバー加入といった新機軸をズビズバと決行していくこととなりました。
こうなると、やってること自体に異議はないんですけど、やっぱり存在が遠くなるというか、身近なアイドルという印象はなくなってしまいますよね。
そもそも、モーニング娘。の魅力のひとつには、特に愛情関連でのあんまりおおっぴらには言いたくない嫉妬とか未練、ストレートな怒りといった感情を正直にぶっちゃけてしまう「人の弱さ」をいとおしんで、そこから逆境をうち破っていこうと唄いあげていく赤裸々さがあったかと思うのですが、こうも国家やエコやアジアといった「まさにその通り!」な大義名分をふりかざす集まりになっちゃうとね……
ただ、そこらへんを敏感に感じ取ったのか、モーニング娘。が2005~07年にリリースした楽曲は、ある程度は上のようなテーマにそったものもあったものの、むしろ多くは1997~98年のシンプルだった頃の原点に回帰したかのような「女のアグレッシブさ」を唄うアダルト歌謡になっています。『SEXY BOY』とか『女に幸あれ』とかは痛快なくらいに言いたいことがハッキリしている王道の「情念ソング」ですよね。湿度の差はありますけど。
でも、そこがいかんのよ! 結局、そういったモーニング娘。とハロプロとの色の違いがどっちつかずのアイウォンチュウに見えるようになってしまったんですね。イメージがきれいに半々になってしまったので、総合的な印象がボンヤリしちゃった。
また、引き続き悪化していたCDの売り上げ不振というところも無視できなくなっておりまして。
2007年は、モーニング娘。にとってシングル総売り上げ枚数とオリコンチャート1位獲得回数が女性アイドルグループの中でトップとなるという記念すべき年となったのですが……まぁ実状は簡単にこれからのことを楽観視できるようなものではありませんでした。
同じオリコントップでも、売り上げ枚数などでは大きな違いができていたんですね。
まさに2000年代前半のトップ獲得が徳川幕府でいう3代将軍家光のありあまる力をもっての京都上洛だったとしたら、2007年の『歩いてる』でのトップ獲得は将軍暗殺計画のうわさとか「天誅!」とかがムンムンしていた幕末に14代将軍家茂(いえもち)が「これをやんなきゃ幕府の威信にかかわるから……」という理由でムリクリ息も絶え絶えで敢行した京都上洛だったってぐらいに落差があったんですな……って、このたとえで「そうなのかぁ!!」って納得できる方、いらっしゃる?
物は言いようなんですが、こういった一連のハロプロのマクロ化とモーニング娘。の原点回帰ミクロ化という分裂現象は、「迷走」というよりも今まで「モーニング娘。=ハロー!プロジェクト」という一枚看板体質をなかなか変えられなかったアップフロントエージェンシーなりつんく♂さんなりが、CD業界の不振とともに共倒れになるのをふせぐために必死に分離してそれぞれを独立させようとした前向きな試みだったのではなかろうかと思えるんですね。
だいたい、いくらデビュー時からず~っとトップアイドルグループとしてのひとかたならぬ修養を重ねていたとはいえ、当時のモーニング娘。に残ったうら若い5・6期メンバーにハロプロ全体を背負ってもらうことは無体な話であり、おぎゃーと生まれたばかりの7・8期の世話をすることで手一杯だった彼女たちには、とにかく「地味だ。」と言われても「最近TVで見なくなったわねぇ。」と言われても、まずファンのみなさんに満足してもらう基本的なところをおさえたプロになる修行に専念してもらう時間は不可欠なものだったのです。
実際、2005~07年の歌番組のスタジオ収録でモーニング娘。が歌唱している映像をいくつか観てみると、ちょ~っとPVとのあいだに無視できないクオリティの差があるように見受けられるんですね。まずはライヴの経験値を重ねること。まさにこの時期、モーニング娘。はあせってツブれるか実力を積んでのちに花を咲かすかの瀬戸際に立っている時だったのです。ここはガマンだ高橋リーダー!
この時期は大事ですよ。こういう雌伏の時期があったからこそ、モーニング娘。は2011年の今、いぶし銀の権威あるアイドルグループ王者の座をたもつことに成功しているわけなのです。
確かに現在、世はまさにAKB48の天下に見えるようなのですが、さぁこれからどうなるのか……権力のAKB48はんと権威のモーニング娘。はん。はたして何年後かに生き残っておじゃるのはどっちでおまっしゃろなぁ?って、今度はモーニング娘。が京都の朝廷になっちった。もうむちゃくちゃです。
最後にちょっと、AKB48の話題が出てきたのであるひとつのポイントでのモーニング娘。とAKB48とのグループの違いをあげておひらきにしたいと思います。
AKB48といえば、いろんな局面で一般のファン層が(お金を払えば)チームの運営に直接自分たちの意志を反映させることができるという「総選挙」がよく引きあいに出されるのですが、実はモーニング娘。も、かつて一度だけファンの意見をメンバー作りに導入してみようか、という動きがあったことがありました。
2002年10月から2003年1月にかけて行われたモーニング娘。の「LOVEオーディション2002」のことなので、今回とりあげた時期のことよりもちょっと前のことになるのですが、最終的には亀井・田中・道重にソロアイドルだったミキティのサプライズ加入という結果となったこの時のオーディションは、途中で突然降って湧いたように「ネットでの国民投票」というイベントが12月22日に開催されていました。
これは募集開始のあとでつんく♂さんから発表された新企画だったのですが、応募者からスタッフによって選抜された10名の候補者の情報をTVで公開して、22日にインターネットを通しての一般からの人気投票を開催し、そこで得票数1位になった人物は自動的に最終選考に上がることができるという趣向になっていました。つまりは、今までつんく♂さんの直感だけで選抜されていた最終選考者枠に、初めてファンの意志が参加できる可能性が生まれたのです。
ところが。
予定通り2002年12月22日にネット投票が開催された結果(有効投票総数約11万票)、しっかりとトップ当選(得票数約1万8千票)を果たす候補者が生まれはしたのですが、翌月に行われたオーディション恒例の秘密の某所での泊まり込み最終選考に、くだんのトップ当選候補が参加することはありませんでした。
結局いつものとおり、最終選考に残ったのはつんく♂さんによって選ばれた亀井・田中・道重のお3方。ちなみにネット投票では田中さんは9位、道重さんは6位。亀井さんにいたってはネット投票に参加することを拒否していました。亀井さんに限らず、応募したあとで急にTVで全国に顔が公表されることに戸惑い、あわてて投票参加を拒否した応募者は多かったようです。まぁその時点ではまるっきりのしろうとさんですからね。最終選考の結果、3人は全員6期メンバーに合格することとなりました。
こうやって2002年のモーニング娘。オーディション幻の「国民投票」はきれいさっぱりなかったことにされてしまったのですが、いろいろ初回に不備があったらあったで次回から修正して続ければよかったものの、以降この企画はいっさい再導入されることはありませんでした。
ここからわかることは、いくらファン第一とはいっても、あくまでも提供するまでの作業一切は「提供する側のプロ」であるところのつんく♂さんなりアップフロントなりの実績に基づいたセンスに任せてくれ!という譲れないラインがモーニング娘。にはあったということです。
このあたりを観て「独裁だ!」と悪く言うこともできるでしょうし、そこらへんのファン層の欲求を見事にピコーンとついたのがAKB48だったのではないかと思うのですが、こういう点ひとつをとっても、まさにモーニング娘。とAKB48はお互いを常に意識しながらまったく違うエンタテインメントを志向した好対照の存在だと言えるんじゃないでしょうか。
さて、そんなわけで次回は、いよいよアキバを拠点に本格的に始動することとなった2006~07年のAKB48についてつらつら考えてみたいと思います。今回取り上げたようなトップたる新生モーニング娘。の「トップゆえの苦悩」に対して、下から旭日の勢いでのし上がることとなったAKB48はどんな時間の中を駆け抜けていたのでしょうか。乞うごきた~い。
え~っと、幕末だとしたらハロプロが江戸幕府でしょ? AKB48が薩摩藩でアイドリング!!!が長州藩で中野腐女シスターズが土佐藩で、あとそれから……
暑いは暑いんですけど、まあまあ、今のところ私の町はさほどヒドいということもなく、適度に風も吹いて適度に夕暮れ時あたりから気温がさがってくれる常識の範囲内の夏におさまっていてくれているような。これからがこえぇよ~。8月フォーウッ。
高校球児はすげぇな、ほんと。こんな状況で全力を出し切らなきゃならんのですからね。そりゃかりんとうみたいな容貌になっちゃいますよ。燃えつきろォ~。
話は変わるんですけど、宮尾すすむさんが亡くなられましたね。
私、はっきり言って全盛期の宮尾さんは知りません。ギリギリ1980年代生まれだったためかTV番組の司会をバリバリやっておられた宮尾さんを観た記憶はとんとなくて、もっぱらCMに出ていた姿か、そのマネを脈絡なく突然しだす井手らっきょさんしか観たことがなかったのです。
でも……好きだねぇ~、あの「ハイッ!」てやつ。意味ねぇ~。でもなんか真剣にやってる~。ホント好きでした。一発芸は「行為の徹底的な意味のなさ」と、「本人にしか筋の通っていないそこでそれをやる必然的な理由」という両極端な価値観が正面切ってぶつかりあうところがいいんだろうなぁ、と子供心に感じていたものです。そういう意味では「ガチョ~ン」とか「アジャパー」の系譜を継ぐ正統な「昭和最後の一発芸」だったんですねぇ。
またお1人、昭和の「うさんくささ」を体現できる方がこの世を去ってしまいました。非常に残念です。
いや、TVであれラジオであれ、ショウの司会者の「うさんくささ」って、すっごく大事だと思うんですよ。だいたい、観た人全員が感動できたり全員が笑えたりするエンタメなんてないんですから。観た人それぞれが信じたり疑ったりいろんなことを考えるのが「情報」の正しい受け取り方だと思うので、それを提供する顔も、観る人に注意をうながす「うさんくささ」があった方が親切だと思うんです。そういう点でも、宮尾さんのオーラには「誠意あふれるうさんくささ」があって芸能人こそ天職だったんだろうなと思うんですね。
(顔の前や周辺で両手を高速で交差させてからビッとキメて)ハイッ、ハイッ、ハイッッッッ!! R.I.P.
しゃてしゃて、そりでは今回も、いよいよ佳境に入ってきたような気がする「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の続きにまいるといたしましょう。
もうね、いよいよ5年以内にせまってきましたから、2011年が。今月中には終わる……かなぁ!?
前回はいよいよモーニング娘。の様相が変化してきた2005~07年のおもなハロプロ関連トピックをあげてみたんですけど、まずはやっぱり、モーニング娘。のメンバーの顔ぶれというおおもとの所が急激にガラガラッと変わったことがわかりますね。
2007年5月のよっすぃ~こと4代リーダー吉澤ひとみの卒業をもって、ついにミリオンヒットを連発したころの黄金の1999~2000年に在籍していたメンバーが全員グループを去ることとなったのです。
とは言っても、中澤・飯田・矢口といった元リーダーの面々はソロ活動を通して同じハロプロのメンバーとしてモーニング娘。とは常に近い距離の場所におり、TV番組でも当たり前のように共演している姿がしょっちゅう見受けられたので、さほどハロプロ自体がさみしくなったというイメージは持たせないものとなっていました。卒業したばかりの吉澤前リーダーと石川元エースもそれぞれ「ガッタス・ブリリャンチス(ならびに音楽ガッタス)」と「美勇伝」という形で強力に後輩たちをサポートしていました。
こういった点から見ると、2005~07年は「新生モーニング娘。」「Berryz工房」「℃-ute」といったハロプロ次世代グループを、なっち・ごっちん・あややといったソロアイドルやモーニング娘。在籍経験者が顔となったユニットやそれら全体がシャッフルされた期間限定のスペシャルユニットが盛り立てていくという新体制ができあがった理想的な時期となっていたのです。
だが、しかし。
実のところ、そういったビッグな世代交代がせちがらい芸能界の中でスムースに進むはずもなく、だいたい2005年の矢口リーダーの電撃脱退あたりから加護ちゃんのハロプロ謹慎・アップフロント解雇騒動、モーニング娘。5期メンバー紺野・小川のちょっと早い卒業や藤本リーダーの電撃脱退にごっちんの不幸なハロプロ卒業(翌2005年の事務所移籍)と、ちょっと立て続けにさまざまな形での「退場劇」が演じられたことは、少なからず世間に「あぁ……ある時代が終わろうとしてんのかねェ。」というよくない空気を広げるものとなりました。
いっぽうで7期にあたる久住さんや8期となる光井・ジュンジュン・リンリンといった新たな面々もどんどんモーニング娘。に加入していったわけなのですが、まぁ~成長しながらトップアイドルという地位を守り続けていかなくちゃならないんですから、大変なもんですよ。
特に、1回分のオーディションがまるまる「なしよ」になった上で鳴り物入りで新エースとして登場してきた久住さんはがんばったことでしょう。
しかし、久住さんって、圧倒的にビジュアルが「浮きます」よね……いや、これは悪いことじゃないですよ!? むしろスターの条件ですよね。
まぁ~とにかくあの典型的な「あま~い」顔立ちが古風なんですよ。ここでいう「古風」とは、戦前の美人顔とか平安時代の美人顔とかじゃなくて、「1980年代」にもてはやされたアイドル顔って感じがするんですけど、どうでしょうか。あのたれ目が気になる気になる! どうしても目がとまってしまいます。
映画の『フォレスト・ガンプ』みたいに、CG映像処理でおニャン子クラブの中に久住さんがまじってても違和感ないくらいですよね。
いやぁ~その手がまだ残っていたか!という感じで、はや20名ほどの美人、個性的、さまざまな顔ぶれを数えていた中でも、さらに今までにないタイプの新エースを迎えたモーニング娘。だったわけなのですが、実のところ、ど~もこの時期での久住さんの加入は1999年でのごっちん加入ほどのセンセーショナルな効果をあげるものにはなりませんでした。
しかしその原因は、久住さんの素質や他のメンバーたちとの相性だなんだといった1人や1つのグループの責任で語られる規模のものではなかったように思えます。久住さんと他のメンバーとの相性については、ライヴやその他の番組でのからみかたを観れば問題なぞあるはずもないことは一目瞭然ですし、久住エースをむかえての2年半の9名メンバー体制が、15年にもなろうかというモーニング娘。の歴史の中でもっとも長く固定されたものだったこともその証拠となるでしょう。だいたい久住さんの「浮き方」はグループの批判にはならないでしょう。だって「久住さんの容姿が浮かない集団」なんか、芸能界であれ普通の世界であれ当時の日本に存在していたでしょうか、いやない。
それだけに、ソロでアニメの主人公として歌を唄うという、たとえプロのアイドルだったとしても生半可なヴィジュアルでは1秒たりとてもたないような荒行をやってのけた「月島きらり」としての活動を、久住さんがこれ以上ないようなフィット感で楽しんでいたのはまさに本領発揮というか「モーニング娘。以外にこんな仕事もあってほんとによかったね~。」というか。ヒットもしてたしねぇ。や・ら・な・い・か!
だとしたら、この2005~07年におけるモーニング娘。の動向がいまひとつそれまでに比べてパッとしなかったのはなぜなのか。
そりゃもうやっぱり、モーニング娘。というかハロー!プロジェクト全体が、いろんな意味でファンやお茶の間から「遠い存在」になってしまったからだったのではないでしょうか。
いや、ハロプロはスケジュールとしてコンサートツアーやミュージカルを引き続いて精力的におこなっており、その点ではファンの期待にこたえることを決して忘れてはいませんでした。
問題は、そのころからハロプロなりつんく♂さんなりが打ち出してきた「理念」のようなものが総じていささか大きすぎるものになったのではないかと。
2003年ごろからハロー!プロジェクトは日本のスポーツ業界の振興にも大いに参入してくるようになり、女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」を応援するかたちでの本格的なフットサルチームの運営や、設立したばかりのプロ野球東北楽天イーグルスの公式応援歌担当をつとめ、そうかと思えばごっちんやあややが総理大臣や外国来賓のディナー会場で歌唱したり犯罪防止キャンペーンの大使をつとめたり、2004~07年には地球温暖化・環境破壊問題を啓発するエコイベント「熱っちぃ地球を冷ますんだっ。文化祭」を大々的に主催したりして、次第に大きな「国民的アイドル」としての仕事をになうようになっていきました。
かと思えば、2006年の暮れにはつんく♂さんが「アジアの中の日本としての新しいモーニング娘。の形を表現していきたい。」という、ちょっと唐突ともいえる発言をしており、現に翌07年にはアジア的・世界的な規模でのコンサート活動や中国人2名のメンバー加入といった新機軸をズビズバと決行していくこととなりました。
こうなると、やってること自体に異議はないんですけど、やっぱり存在が遠くなるというか、身近なアイドルという印象はなくなってしまいますよね。
そもそも、モーニング娘。の魅力のひとつには、特に愛情関連でのあんまりおおっぴらには言いたくない嫉妬とか未練、ストレートな怒りといった感情を正直にぶっちゃけてしまう「人の弱さ」をいとおしんで、そこから逆境をうち破っていこうと唄いあげていく赤裸々さがあったかと思うのですが、こうも国家やエコやアジアといった「まさにその通り!」な大義名分をふりかざす集まりになっちゃうとね……
ただ、そこらへんを敏感に感じ取ったのか、モーニング娘。が2005~07年にリリースした楽曲は、ある程度は上のようなテーマにそったものもあったものの、むしろ多くは1997~98年のシンプルだった頃の原点に回帰したかのような「女のアグレッシブさ」を唄うアダルト歌謡になっています。『SEXY BOY』とか『女に幸あれ』とかは痛快なくらいに言いたいことがハッキリしている王道の「情念ソング」ですよね。湿度の差はありますけど。
でも、そこがいかんのよ! 結局、そういったモーニング娘。とハロプロとの色の違いがどっちつかずのアイウォンチュウに見えるようになってしまったんですね。イメージがきれいに半々になってしまったので、総合的な印象がボンヤリしちゃった。
また、引き続き悪化していたCDの売り上げ不振というところも無視できなくなっておりまして。
2007年は、モーニング娘。にとってシングル総売り上げ枚数とオリコンチャート1位獲得回数が女性アイドルグループの中でトップとなるという記念すべき年となったのですが……まぁ実状は簡単にこれからのことを楽観視できるようなものではありませんでした。
同じオリコントップでも、売り上げ枚数などでは大きな違いができていたんですね。
まさに2000年代前半のトップ獲得が徳川幕府でいう3代将軍家光のありあまる力をもっての京都上洛だったとしたら、2007年の『歩いてる』でのトップ獲得は将軍暗殺計画のうわさとか「天誅!」とかがムンムンしていた幕末に14代将軍家茂(いえもち)が「これをやんなきゃ幕府の威信にかかわるから……」という理由でムリクリ息も絶え絶えで敢行した京都上洛だったってぐらいに落差があったんですな……って、このたとえで「そうなのかぁ!!」って納得できる方、いらっしゃる?
物は言いようなんですが、こういった一連のハロプロのマクロ化とモーニング娘。の原点回帰ミクロ化という分裂現象は、「迷走」というよりも今まで「モーニング娘。=ハロー!プロジェクト」という一枚看板体質をなかなか変えられなかったアップフロントエージェンシーなりつんく♂さんなりが、CD業界の不振とともに共倒れになるのをふせぐために必死に分離してそれぞれを独立させようとした前向きな試みだったのではなかろうかと思えるんですね。
だいたい、いくらデビュー時からず~っとトップアイドルグループとしてのひとかたならぬ修養を重ねていたとはいえ、当時のモーニング娘。に残ったうら若い5・6期メンバーにハロプロ全体を背負ってもらうことは無体な話であり、おぎゃーと生まれたばかりの7・8期の世話をすることで手一杯だった彼女たちには、とにかく「地味だ。」と言われても「最近TVで見なくなったわねぇ。」と言われても、まずファンのみなさんに満足してもらう基本的なところをおさえたプロになる修行に専念してもらう時間は不可欠なものだったのです。
実際、2005~07年の歌番組のスタジオ収録でモーニング娘。が歌唱している映像をいくつか観てみると、ちょ~っとPVとのあいだに無視できないクオリティの差があるように見受けられるんですね。まずはライヴの経験値を重ねること。まさにこの時期、モーニング娘。はあせってツブれるか実力を積んでのちに花を咲かすかの瀬戸際に立っている時だったのです。ここはガマンだ高橋リーダー!
この時期は大事ですよ。こういう雌伏の時期があったからこそ、モーニング娘。は2011年の今、いぶし銀の権威あるアイドルグループ王者の座をたもつことに成功しているわけなのです。
確かに現在、世はまさにAKB48の天下に見えるようなのですが、さぁこれからどうなるのか……権力のAKB48はんと権威のモーニング娘。はん。はたして何年後かに生き残っておじゃるのはどっちでおまっしゃろなぁ?って、今度はモーニング娘。が京都の朝廷になっちった。もうむちゃくちゃです。
最後にちょっと、AKB48の話題が出てきたのであるひとつのポイントでのモーニング娘。とAKB48とのグループの違いをあげておひらきにしたいと思います。
AKB48といえば、いろんな局面で一般のファン層が(お金を払えば)チームの運営に直接自分たちの意志を反映させることができるという「総選挙」がよく引きあいに出されるのですが、実はモーニング娘。も、かつて一度だけファンの意見をメンバー作りに導入してみようか、という動きがあったことがありました。
2002年10月から2003年1月にかけて行われたモーニング娘。の「LOVEオーディション2002」のことなので、今回とりあげた時期のことよりもちょっと前のことになるのですが、最終的には亀井・田中・道重にソロアイドルだったミキティのサプライズ加入という結果となったこの時のオーディションは、途中で突然降って湧いたように「ネットでの国民投票」というイベントが12月22日に開催されていました。
これは募集開始のあとでつんく♂さんから発表された新企画だったのですが、応募者からスタッフによって選抜された10名の候補者の情報をTVで公開して、22日にインターネットを通しての一般からの人気投票を開催し、そこで得票数1位になった人物は自動的に最終選考に上がることができるという趣向になっていました。つまりは、今までつんく♂さんの直感だけで選抜されていた最終選考者枠に、初めてファンの意志が参加できる可能性が生まれたのです。
ところが。
予定通り2002年12月22日にネット投票が開催された結果(有効投票総数約11万票)、しっかりとトップ当選(得票数約1万8千票)を果たす候補者が生まれはしたのですが、翌月に行われたオーディション恒例の秘密の某所での泊まり込み最終選考に、くだんのトップ当選候補が参加することはありませんでした。
結局いつものとおり、最終選考に残ったのはつんく♂さんによって選ばれた亀井・田中・道重のお3方。ちなみにネット投票では田中さんは9位、道重さんは6位。亀井さんにいたってはネット投票に参加することを拒否していました。亀井さんに限らず、応募したあとで急にTVで全国に顔が公表されることに戸惑い、あわてて投票参加を拒否した応募者は多かったようです。まぁその時点ではまるっきりのしろうとさんですからね。最終選考の結果、3人は全員6期メンバーに合格することとなりました。
こうやって2002年のモーニング娘。オーディション幻の「国民投票」はきれいさっぱりなかったことにされてしまったのですが、いろいろ初回に不備があったらあったで次回から修正して続ければよかったものの、以降この企画はいっさい再導入されることはありませんでした。
ここからわかることは、いくらファン第一とはいっても、あくまでも提供するまでの作業一切は「提供する側のプロ」であるところのつんく♂さんなりアップフロントなりの実績に基づいたセンスに任せてくれ!という譲れないラインがモーニング娘。にはあったということです。
このあたりを観て「独裁だ!」と悪く言うこともできるでしょうし、そこらへんのファン層の欲求を見事にピコーンとついたのがAKB48だったのではないかと思うのですが、こういう点ひとつをとっても、まさにモーニング娘。とAKB48はお互いを常に意識しながらまったく違うエンタテインメントを志向した好対照の存在だと言えるんじゃないでしょうか。
さて、そんなわけで次回は、いよいよアキバを拠点に本格的に始動することとなった2006~07年のAKB48についてつらつら考えてみたいと思います。今回取り上げたようなトップたる新生モーニング娘。の「トップゆえの苦悩」に対して、下から旭日の勢いでのし上がることとなったAKB48はどんな時間の中を駆け抜けていたのでしょうか。乞うごきた~い。
え~っと、幕末だとしたらハロプロが江戸幕府でしょ? AKB48が薩摩藩でアイドリング!!!が長州藩で中野腐女シスターズが土佐藩で、あとそれから……