新吉原花園池(弁天池)跡、吉原弁財天は、昭和10年吉原神社に合祀されたため、正確には独立した神社ではありませんが、現在も鎮魂碑等多くの遺構を残している
明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。(台東区教育委員会掲示より)
現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
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