ロビンソン本を読む

本とデザイン。読んだ本、読んでいない本、素敵なデザインの本。

その昔、N市では

2024-10-07 18:08:33 | 読書
 マリー・ルイーゼ・カシュニッツ『その昔、N市では』



 15作の短編は、どれも現実と異界の狭間の物語。

 どれもただただ不気味。

 それなのになぜか、前にどこかで経験したことがあるかのような、懐かしさにも似た胸の奥を絞る感覚がついてくる。


 別世界の入口は、気づかないだけですぐ隣りにある。

 表題作「その昔、N市では」は、給仕、介護、清掃、配達といった、人に奉仕する仕事につく人がいなくなってしまった都市の話。

 デスクワークにばかり人々は集まり、路上は汚くなり飲食店は閉まり公共交通機関は運行を停止した。

 そこで街は、どんな嫌な仕事でも口答えせずにこなす人を作り出すことにしたのだった。


 募集しても人が集まらない。

 飲食店は営業時間を短縮し、バスは減便され、宅配便は配達が遅れる。

 2024年の日本のことだ。

 外国人労働者が珍しくなくなり、ロボットが給仕し、レジは無人になる。

 ぼくたちの生活は、少しずつ変わっていく。小説の舞台N市のように。

 
 この小説は1960年代に書かれたものだが、決して未来を予測したわけではないだろう。

 人手不足に対しての解決策は、小説のようにはならないだろうが、ぎりぎり似た世界が登場しないとも限らない。

 人間そっくりのAIはもういるのだから。


 装画は村上早氏、装丁は岡本歌織氏。(2024)

イギリス人の患者

2024-07-02 19:12:32 | 読書
 マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』



 幸せな時間だった。

 本を開くのが楽しみで、ゆっくり読み進める間は満ち足りていた。


 良質な物語が展開されることはわかっていた。マイケル・オンダーチェなのだから。

 ただ、何年も前に観たこの小説を原作とした映画『イングリッシュ・ペイシェント』は、ぼくの好みからは少し離れていた。

 映画が好きではないからといって、原作を読むことにためらいはない。なにしろマイケル・オンダーチェなのだから。


 庭仕事をしていた女は、天気の変化を感じ屋敷へ向かう坂を上る。イトスギ、柱廊、台所、暗い階段、長い廊下、部屋の中の庭園、あずまや。

 そこに置かれたベッドに横たわる男の体を女は洗う。黒く、両足は破壊され、それは火傷で、一番ひどい箇所は骨、剥き出しの?

 
 最初の1ページ目からイメージが溢れ出てくる。

 死にそうな男がつぶやく。えっ? 何?

 男が語る物語は、静かに心の中に染み込んでくる。


 ここは、かつて野戦病院として使われていた屋敷。第二次世界大戦の末期。

 戦線が移動するとき、若い看護師のハナはここに残って1人で男の世話をすると決めた。彼女は博学な男に心酔している。

 操縦していた飛行機が墜落し大火傷を負った男は、砂漠の民ベドウィンに助けられ生き延びたのだった。

 屋敷の周囲は、ドイツ軍が埋めた地雷が散らばっている。

 やがて、ハナの父の友人、地雷の撤去にやってきた兵士ら4人が屋敷で暮らすようになる。

 御伽噺のような、束の間の幸せな空間。ところが、思いもよらない展開をみせる。


 読了後、適当に本を開き目に入った箇所を読み返す。全文を暗記するにはほど遠く、新たな発見をしつつ読める幸せはまだまだ続く。


 装丁は緒方修一氏。(2024)



アメリカへようこそ

2024-06-03 16:43:48 | 読書
 マシュー・ベイカー『アメリカへようこそ』



 白と赤と青。アメリカ国旗の色。

 ほぼこの3色で作られた印象のカバーは、シンプルでお洒落だ。

 中央には赤く縁取りされた写真がある。宙に浮く7枚の扉のうち右から2番目だけが赤くて目を引く。何か意味がありそうな、なさそうな。

 しかし、それよりもっと目を引くのは、本を最初に見た時から気になっているのは、帯にある著者の写真だ。

 頭の半分だけを刈り上げたクセの強い風貌に、パンクな世界を想像した。

 ところが13編の物語は、意外にも味わいが静かに胸に残るものばかりだった。


 どの世界も独特だ。

 架空の言葉を書く辞書編纂者の話「売り言葉」。実在しない言葉なのに何度か目にしているうちに、その意味が普通に理解できるようになってしまう。外国語の単語を覚えているかのようだ。つい使ってみたくなる。この気持ちは「アザリー」だとか。

 「逆回転」は、死が誕生に、誕生が死になる、通常の世界とは進行が反対になっている話。逆回転の映像を見たことがあるが、たぶんあの状況に似ているのだろう。想像が追いつかず、ルールのつかめないゲームをしている気分のまま読み進めていると、ああこれはあのことかもと気づく。すると気持ちの整理がつかなくなってくる。喜びなのか悲しみのなのか。これこそ「アザリー」だ。


 装丁は川添英昭氏。(2024)


 アザリー…他者の苦しみに共感することにより感じる苦しみのこと。元の苦しみよりもさらに苦しい(当然辞書には載っていない言葉)



忘れたとは言わせない

2024-05-28 17:04:29 | 読書
 トーヴェ・アンステルダール『忘れたとは言わせない』


 川岸にたたずみ、こちら側を振り返った女性の泣きそうな困惑したような表情が印象的で、思わず書店で手に取った。

 このカバー写真はこの本のために撮影されたものではなく、ストックフォトから選ばれたものだが、タイトルの『忘れたとは言わせない』によって深い意味があるように感じさせる。


 舞台はスウェーデン。

 広大な森を抜け、砂利道を車で走る男。

 山と湖、そして廃屋。この寂しい土地に久しぶりに帰ってきた男は、実家の浴槽で父親の遺体を見つける。

 慌てて逃げ出す男。

 やましいことはないはずなのに、この男、どこか奇妙だ。

 駆けつけた刑事は地元の女性。彼女はまだ幼かった頃、男がこの地を去ることになった事件をぼんやり覚えていた。

 男は服役を終え帰ってきたのだが、その事件にははっきりしない部分が多いことに刑事は気づく。

 男の父親の刺殺と過去の事件には何か関連があるのか。

 
 霧の中を進むように、はっきりしたことがなかなか見えてこない。

 事件はまだ終わっていない、すぐ手の届くところに解決の糸口があるのかもしれない。

 湿気を含んだ重い空気を感じさせる世界で、きっと幸せな終わり方はしないのだろうという予感が離れない。


 装丁は國枝達也氏。(2024)



イスタンブル、イスタンブル

2024-04-28 11:10:57 | 読書
 ブルハン・ソンメズ『イスタンブル、イスタンブル』


 帯に使われている紙は折りに弱いのか、曲げられた端の赤いインクが剥げて白い下地がところどころ見えてしまった。この本を携えてもうひと月が経とうとしているためかもしれない。

 経年劣化、同時に風格とも感じさせてしまうのは、この小説が繰り返し触れるイスタンブルという街の美しさと重なるからだろう。


 美しい街の地下に牢獄がある。

 その牢には窓がなく、寒くて時間もわからない。

 政治犯として囚われた同房の4人は、経歴も年齢もバラバラ。彼らはときおり別の部屋へ連れて行かれ拷問を受ける。

 部屋に残った者たちは物語を語り合う。それは辛い現実をしばし忘れるための工夫だった。

 やがて拷問は激しさを増し、息も絶え絶えになって監房に戻される。

 一滴の水もない部屋の中で、彼らは想像上の煙草で一服し、チーズやピクルスを食べ蒸留酒で乾杯をする。

 想像力のたくましい力、しかしそこには死の影がチラついてしまう。

 彼らはここから生きて出られるのか。


 傷んだ帯を外したとき、上と下に繰り返される「ISTANBUL」が、延々と表示され続けるような錯覚がして目が眩んだ。

 この物語が、ただの空想上の話ではないと解説を読んで知ったあとだからなのか。(2024)