ロビンソン本を読む

本とデザイン。読んだ本、読んでいない本、素敵なデザインの本。

83 1/4歳の素晴らしき日々

2020-08-29 10:29:58 | 読書
ヘンドリック・フルーン『83 1/4歳の素晴らしき日々』



 鮮やかなグリーンのカバーは、雑誌の表紙のように賑やかだ。

 中央にあるのは若いモデルの写真ではなく、おじいさんの素描。意志の強そうな眼差しと、穏やかな口元、髪は跳ねているがダンディだ。

 カバーをよく見ると、グリーンのほかには黒しか使っていない。2色のとてもシンプルなもの。

 帯を外すと、周囲に散りばめられていた文字がなくなり、おじいさんが1人になる。パーティーが終わったあと部屋に1人残されたかのようで、同じイラストなのに、どことなく寂しげな表情に見えてしまう。


 オランダのケアハウスに暮らす、83歳の老人が書いた1年の日記という体裁の小説。

 はじめのうちは、もっと若い人が書いたものだろうと思っていた。しかし、読み進めるうちに、細かな人間関係やそれに対するおじいさん(ヘンドリック)の感情に親近感を覚え、本当に83歳の人が書いているのではないかと思えてきた。

 1年の中に上手に収まるように書かれた構成を考えると、創作だと思えるのだが、これがもしも30代の人が取材をして書いたものだとしたら、少しがっかりする。

 老人だからといって、悟りを開けたわけではないし、仙人でもない。この小説の中に卓越した知識を求めるのは間違いだ。

 それでも「人生は五千ピースのジクソーパズルを見本なしに作るようなものだ」と老齢者に言われると、なるほどと深く納得する。

 ケアハウスは俗世から隔絶された高潔な社会ではなく、ギラギラ、ドロドロしていて、ヘンドリックのユーモアが楽しい読み物にしている。


 他の言語での表紙のデザインが気になったのでアマゾンで調べると、カタルーニャ語版ではおじいさんに色がついている。

 血色よく、青いシャツに臙脂色のセーターとお洒落で、楽しそうな雰囲気が醸し出されている。

 一方、ブラジルのポルトガル語版は、周囲を黒で囲んでいるため遺影のように見える。悪いジョークのようだ。


 装丁は篠田直樹氏、装画はVictor Meijer氏。(2020)



戦下の淡き光

2020-08-22 11:29:25 | 読書
マイケル・オンダーチェ『戦下の淡き光』





 グレーのカバーの中央に、あかりの灯ったランプが描かれている。ランプがあることで、このグレーが真っ暗ではないものの、暗い場所だと感じられる。それは周囲の気配がわかる程度の暗さ。

 タイトル、著者名、帯の文字までもが細い明朝体で、目立たぬよう、タイトルの「戦下」を、戦時中の灯火管制を表しているようだ。

 とても地味なカバーなのに、マイケル・オンダーチェだと書店で見た瞬間にわかった。前作『名もなき人たちのテーブル』はターコイズブルーが明るく美しいカバーだったが、2冊には共通する静けさがあるのだ。


 語り手はロンドンに住む14歳の少年。

 1945年のあるとき、両親が仕事の関係で外国へ長期間いくことになり、2つ違いの姉とともに家に残される。母は同僚の男に姉弟の世話を頼み、男は間借り人として家に住むことになる。

 2人は男のことをどういうわけか犯罪者だと疑っている。

 実際、男は何をしているのかよくわからない上に、勝手に怪しげな人たちを家に連れてくる。

 正体がはっきりしないというだけで想像を膨らませているうちは、まだ無邪気な子どもの遊びだ。

 ところが、母親が諜報員らしいということがわかってくると、現実の形が曖昧になり、親に捨てられたのかと不安になる。

 やがて少年は、家に来ていた怪しい男の非合法な仕事を手伝うようになり、いつしかその男に、父親に対するような感情を抱くようになる。

 少年はこのとき、その束の間の楽しさの下で何が起こっているのかを知らない。


 物語の後半では、大人になった少年が、少しずつ当時のことを振り返っていく。

 子どもの頃の出来事を大人の視点で考えると、見えてくるものが違う。

 それは読者としてのぼくも同じで、最初に少年の視点から読んだ物語を、再度冷静に大人の視点で読むと、少し違ったものが見えてくるのだ。

 こんなに静かなのに、こんなに激しい物語だとは。


 装丁は水崎真奈美氏。(2020)



拝啓、本が売れません

2020-08-09 16:44:04 | 読書
額賀 澪『拝啓、本が売れません』





 書店で見かけた文庫本のカバーに見覚えがあった。

 手に取り、カバーを外してみる。

 カバーと同じデザイン。表紙のフォーマットをそのままカバーに使ったのだ。

 生半可な覚悟では、このデザインを採用することはないだろう。この本はベスト・オブ・文春文庫だと公言しているようなものだ。


 なぜ本は売れないのか、どうしたら売れるのか。

 デビュー3年目の若い作家が、その答えを求めて編集者、書店員、デザイナー、さらにはWebコンサルタント、映像プロデューサーらに話を聞きに行く。

 著者本人が自著の初版部数を減らされ、将来の不安を抱えている。

 ノンフィクションライターが多くの人に取材をし、データを読み解き、冷静に書き記すものとは違う。著者の場合、教師に教えを請うようだ。著者の必死さが伝わってくる。

 取材先は行き当たりばったりだ。たまたま知り合った人、たまたま雑誌で見た人。その臨場感が、現場へ同行しているような感覚を生む。

 そして最後には、思いもよらなかった感動のフィナーレへと向かう。物語を書いている作家ならではの構成だが、「おまけ」に至ってはあまりに出来過ぎではないかと疑問を感じないでもない。でも事実だろう。


 どうしたら本が売れるのかはぼくにもわからない。ただ、本が好きな人が想像するよりも読書という趣味は、世間一般からしたらマニアックなものになっているのだと思う。小説を読むのが好きですと誰かに言っても、味気ない反応しか得られない。もともとそれほど売れる商品ではないのだ。

 だからどの書店に行っても、同じような売れている本ばかり目につくのは仕方がない。ベストセラーの間に、自分好みの本を見つけることが、マニアの楽しみなのだ。出版点数が多くなって、ますます好みの本が見つけにくくなっても、それは難攻不落の敵陣に向かうのと同じで文句は言わない。

 マニアになればなるほど、自分の専門分野に深くこだわるようになる。ぼくの好みの分野からすると、額賀澪氏の小説は範囲外で、この先読むことはないかもしれない。でも『拝啓、本が売れません』を偶然手に取ったように、書店では何が起こるかわからない。


 装丁は城井文平氏。(2020)




ゼロ・デシベル

2020-08-01 15:30:48 | 読書
マディソン・スマート・ベル『ゼロ・デシベル』




 表紙には、ニューヨークのダイナーが描かれている。

 カウンターに座る男性は中折れ帽をかぶっていて、外にはクラシカルなアメリカ車のテールランプが見える。

 白い帯を外すと、絵の上下は黒一色。映画館の中に足を踏み入れたのかと錯覚するほど、突然ダイナーが浮かび上がってくる。スクリーンに映し出された古い時代の物語を見ている気分になる。


 11ある短編のいくつかは映画のようでもある。

 南部の畜産農家を描いた物語は描写が丁寧で、登場人物は感情をあまり表さない。

 文章には無駄がなく、抑揚があり、ときに冷たい氷を一瞬に溶かしてしまうような熱さを感じる。

 一方で、自身がブルックリンへ引っ越したことを元に書いたと思われる文章は、情緒的で切なくなる。

 マンハッタン、ブルックリン、ニューアーク、プリンストンを、著者と思われる男は歩く。おそらく80年代。表紙の絵ほどではないが、少し前のアメリカの街の空気を感じられる。

 著者と思われる男は、どこにいても自分を見失っているように見える。専心できることが見つからないからなのか、どこか投げやりだ。

 けれども、それは若い時期に当然のようについてくるものかもしれない。この数年後、男がどこを歩いているのか知りたくなる。


 残念なことに、マディソン・スマート・ベルの小説は翻訳が少ない。1冊にまとまったものは、この『ゼロ・デシベル』だけのようだ。

 1991年に出版されたこの本は、古書店で探すか図書館で見つけないと読むことができない。

 新しい翻訳を待っているのは、ぼく1人ではないはずだ。


 装画はレッド・グルームス。表紙の絵は、エドワード・ホッパー『Nighthawks』のオマージュ。(2020)