つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

古人が生きた証。~津幡町・中橋にて。

2013年05月28日 22時30分20秒 | 日記
「今日の一枚」は、津幡川沿いにある「中橋墓地霊園」にて撮影。
小さな墓石には「安永二年 巳 五月八日」と刻まれていた。
「安永年間」は、西暦で言えば、1772年から1780年までを指す。
つまり、この墓標は240年前から、町を見守ってきた事になる。

1603年の幕府成立から、1867年の大政奉還までの264年と仮定し、
前・中・後期で3分割するならば、1つの期間は88年毎。
故に「安永年間」は、江戸時代の中期から後期への過渡期にあたるタイミングである。

当時の江戸幕府のトップは、第10代将軍「徳川家治」。
日本の人口と米の生産高倍増により、経済の規模も拡大し、
経済が戦国型の軍事優先から、民間主導に移行した「元禄」。
8代将軍「吉宗」が、質素倹約、綱紀粛正などを柱とした緊縮財政と、
新田開発に代表される新規開拓を推し進めた「享保」。
…2つの大きな流れを経た「安永」の大きな出来事としては、
「解体新書」の刊行が挙げられるだろう。

ドイツ人医師が著した医学書のオランダ語訳「ターヘル=アナトミア」を元にした、
我が国初の本格的な「翻訳書」であり「解剖書」…「解体新書」。
満足な辞書・辞典のない中、編さんにあたった「前野良沢」「杉田玄白」らは苦労を重ね、
4年を費やし、改稿を11回重ねて、安永3年(1774年)に完成させた。
…とは、社会の授業で習ったとおりである。

同じ頃、津幡町ではこんな出来事があったらしい。

『1774(安永3)年から翌々年にかけて大雪が続き、
 山奥でエサがないイノシシが多く出没し、山里の作物を食い荒らしました。
 そのため、藩では役人を派遣して大規模なイノシシ狩りが行われ、
 数千頭が殺されました。』
 (※津幡町観光ガイドHP「猪塚(ししづか)」より抜粋・引用、原文ママ)
 (※2011年11月27日に関連投稿アリ)

単純に「残酷」と断定してはいけない。
猪を屠らなければ、暮らしが脅かされたのである。
14世紀末頃から19世紀前半ばにかけては、
世界的に寒冷化が進み、現在に比べ、1~2℃気温が低い「小氷期」。
津幡町にも、少なからず異常気象の影響があった一例だろう。

果たして、冒頭の墓石の下に眠る先達もまた、
厳しい自然環境に斃れたのだろうか?
一体、どんな人生を歩み、何歳まで生きたのだろうか?
川風に吹かれながら一頻り思いを馳せ、僕は手を合わせた。

…合掌。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする