つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

四方辻話。

2015年09月06日 06時31分31秒 | 日記
昨日は、津幡町旧市街の中心部…清水の「四ツ角」交差点について投稿した。
本日は、そのプロフィールを話題にしてみようと思う。

 

コレは、津幡城址・大西山から望む「四ツ角」である。
左手に停まる黒の乗用車の脇を奥へと進み、カーブミラーも通り越して、
横断歩道の辺りに着けば、そこが「四ツ角」。
交差点の左手は「北陸銀行」で、向いが「旧・靴のオクガワ」。
右手に「久世酒造」、奥は「おやど橋」から金沢方面へ続く道だ。
拙ブログに、時折、同様の景観が登場するが、
津幡小学校旧校舎に通った身としては、いかにも津幡らしいスナップなのだ。
もう少し拡大してみよう。

 


さて、そんな「四ツ角」は、かつて三ツ角だった。
金沢へ四里、七尾へ一四里、富山へ一三里の距離。
津幡小学校が大西山へ移転した後、明治の終わり頃、
清水方向に新しい道が造成され十字路となった。

紀元後の世紀が一桁台だった古代期は、
水運に適した「加茂」や「太田」が、交通の要衝として機能した。
…が、武家が台頭し、群雄割拠の戦国時代になると、
「軍事・統治拠点」の重要度がアップ。
また、武者軍団が行き交う、陸上の「道」が必要になって、
大西山(津幡城)と四ツ角(北国街道)の存在感がクローズアップ。

更に、前田家が、加越能3国を確保するに至り、
ここを人馬・物資の要と位置付けた。
荷役馬が車を曳き、天秤棒や籠を担いだ人々、旅装束が行き交う津幡宿一帯は、
参勤交代の宿場町としても繁栄したのである。

やがて、昭和初頭、金沢~津幡(四ツ角)間に「乗合タクシー」が開業。
北陸鉄道のバス路線へ引き継がれ、昭和51年(1976年)まで継続。
「津幡中央銀座商店街」も同時期頃まで、大いに賑わった。

Cental-TSUBATAの再興を、心から臨んでいる。
コメント
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