同じカテゴリーの先回投稿では「マタ・ハリ(LINK有)」を取り上げてみた。
この稀代の女スパイをモデルにする幾つかの映画の中で、個人的に好きな一本が、
「間諜X27(かんちょう・えっくす・にじゅうなな)」(1931年公開)。
間諜とはスパイのこと。
「間」も「諜」も「うかがう」の読みがあり、敵の様子を探る者を指す。
「X27」は符丁(ふちょう) --- スパイとしてのコードネームである。
今回は、その主役を演じた女優がモチーフ。
ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載第百五十四弾は「マレーネ・ディートリッヒ」。
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「マレーネ・ディートリッヒ」は、
20世紀の幕が開いた1901年、ベルリン生まれ。
祖母も母も評判の美人だったという。
ヨーロッパの都会っ子らしく、幼い頃からバイオリニストを夢見て稽古に励み、
熱心にドイツ哲学、ドイツ文学を学んで成長した。
一方、彼女の思春期は、ドイツ受難の時代に重なる。
第一次世界大戦に敗戦。
課された巨額の賠償金(国家予算20年分)により経済が崩壊。
スペイン風邪の大流行と世界恐慌が追い打ちをかけた。
胸には、愛国心とゲルマンの誇り。
目の前に広がるのは、荒廃した耐えがたい現実。
あまりのギャップから葛藤に悶えたであろう事は想像に難くない。
そして、自身も挫折を味わう。
利き腕をケガして、音楽家の夢を断念しなければならなかった。
演劇に転向し、結婚して一児をもうけ、
生活の為、夜の街でキャバレーのステージに立つ「マレーネ」。
煙草の煙に巻かれ、酔客をあしらいながらマイクを握り、糧を得て、
女優業は端役に甘んじる日々。
気が付くと、彼女は28歳になっていた。
そんな下積み時代のある日、救世主が現れる。
ドイツ系ユダヤ人の映画監督「ジョセフ・フォン・スタンバーグ」が、
無名の「ディートリッヒ」を見初め、主演に抜擢。
公私に亘り親しい間柄になった2人は、手に手を取ってヒット街道を歩み始めた。
ドイツ初のトーキー(映像音声同期作品)『嘆きの天使』。
ハリウッドへ進出し『モロッコ』『間諜X27』『上海特急』などで大成功を収める。
しかし、“黄金コンビ”の快進撃は長続きせず、
恋の終わりと共に「マレーネ」のキャリアにも影が射した。
そんな時、彼女に帰国を要請したのが「アドルフ・ヒトラー」だった。
独裁者は、“優生人種の美”を体現する女優が大のお気に入り。
だが、ナチ嫌いの「マレーネ」は、これを頑なに拒み、アメリカに帰化。
怒った「ヒトラー」は、彼女の映画をドイツ国内で上映禁止にしてしまった。
やがて二度目の世界大戦が勃発。
戦いが激化してゆく中「マレーネ」は、あれほど敬遠していたヨーロッパへ向かう。
母国と敵対する連合国軍兵士たちを慰問するためだ。
ゲルマンの誇りとナチスへの怒りを込め、
「リリー・マルレーン(LINK有)」を歌った。
戦後は、音楽に軸足を置き活動する。
ブロードウェイの舞台に立ち、1968年に「トニー賞」特別賞を受賞。
1970年、74年の2度、来日公演。
1975年に足を骨折するまでコンサート活動を続けた。
引退後は母国ではなく、パリで暮らし、公にその姿を一切見せなかったが、
1989年、ベルリンの壁が崩壊した時には、歓喜したという。
『私の街が自由になった!』と。
忌むべき為政者たち --- ファシストやコミュニストが滅び、
彼女は、ようやく愛するドイツへ帰る。
ただし、物言わぬ遺骸となって。
ベルリン郊外の墓地、母の隣で永遠の眠りについた。
この稀代の女スパイをモデルにする幾つかの映画の中で、個人的に好きな一本が、
「間諜X27(かんちょう・えっくす・にじゅうなな)」(1931年公開)。
間諜とはスパイのこと。
「間」も「諜」も「うかがう」の読みがあり、敵の様子を探る者を指す。
「X27」は符丁(ふちょう) --- スパイとしてのコードネームである。
今回は、その主役を演じた女優がモチーフ。
ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載第百五十四弾は「マレーネ・ディートリッヒ」。

「マレーネ・ディートリッヒ」は、
20世紀の幕が開いた1901年、ベルリン生まれ。
祖母も母も評判の美人だったという。
ヨーロッパの都会っ子らしく、幼い頃からバイオリニストを夢見て稽古に励み、
熱心にドイツ哲学、ドイツ文学を学んで成長した。
一方、彼女の思春期は、ドイツ受難の時代に重なる。
第一次世界大戦に敗戦。
課された巨額の賠償金(国家予算20年分)により経済が崩壊。
スペイン風邪の大流行と世界恐慌が追い打ちをかけた。
胸には、愛国心とゲルマンの誇り。
目の前に広がるのは、荒廃した耐えがたい現実。
あまりのギャップから葛藤に悶えたであろう事は想像に難くない。
そして、自身も挫折を味わう。
利き腕をケガして、音楽家の夢を断念しなければならなかった。
演劇に転向し、結婚して一児をもうけ、
生活の為、夜の街でキャバレーのステージに立つ「マレーネ」。
煙草の煙に巻かれ、酔客をあしらいながらマイクを握り、糧を得て、
女優業は端役に甘んじる日々。
気が付くと、彼女は28歳になっていた。
そんな下積み時代のある日、救世主が現れる。
ドイツ系ユダヤ人の映画監督「ジョセフ・フォン・スタンバーグ」が、
無名の「ディートリッヒ」を見初め、主演に抜擢。
公私に亘り親しい間柄になった2人は、手に手を取ってヒット街道を歩み始めた。
ドイツ初のトーキー(映像音声同期作品)『嘆きの天使』。
ハリウッドへ進出し『モロッコ』『間諜X27』『上海特急』などで大成功を収める。
しかし、“黄金コンビ”の快進撃は長続きせず、
恋の終わりと共に「マレーネ」のキャリアにも影が射した。
そんな時、彼女に帰国を要請したのが「アドルフ・ヒトラー」だった。
独裁者は、“優生人種の美”を体現する女優が大のお気に入り。
だが、ナチ嫌いの「マレーネ」は、これを頑なに拒み、アメリカに帰化。
怒った「ヒトラー」は、彼女の映画をドイツ国内で上映禁止にしてしまった。
やがて二度目の世界大戦が勃発。
戦いが激化してゆく中「マレーネ」は、あれほど敬遠していたヨーロッパへ向かう。
母国と敵対する連合国軍兵士たちを慰問するためだ。
ゲルマンの誇りとナチスへの怒りを込め、
「リリー・マルレーン(LINK有)」を歌った。
戦後は、音楽に軸足を置き活動する。
ブロードウェイの舞台に立ち、1968年に「トニー賞」特別賞を受賞。
1970年、74年の2度、来日公演。
1975年に足を骨折するまでコンサート活動を続けた。
引退後は母国ではなく、パリで暮らし、公にその姿を一切見せなかったが、
1989年、ベルリンの壁が崩壊した時には、歓喜したという。
『私の街が自由になった!』と。
忌むべき為政者たち --- ファシストやコミュニストが滅び、
彼女は、ようやく愛するドイツへ帰る。
ただし、物言わぬ遺骸となって。
ベルリン郊外の墓地、母の隣で永遠の眠りについた。