拙ブログには度々登場する「本津幡駅」。
散歩の立ち寄り定番スポット。
特に春は「一本桜」の満開ぶりと併せてよく撮影している。
花の季節はとうに過ぎ、今は葉桜。
覆いかぶさるように茂る緑の奥に見える木造の建物が駅舎だ。
きのう、一歩足を踏み入れた時の印象が違った。
待合に人がいないのは珍しくないが、随分「がらん」としている。
空間のスペースは変わらないのに、広くなったような気がする。
掲示板の案内を読み合点がいく。
「無人駅」になっていたのだ。
本津幡駅の歴史は古い。
明治31年(1898年)、津幡仮停車場として開業。
明治35年(1902年)、現在地に移転し本津幡駅として再開業。
「津幡町史」に昭和元年~29年までの利用状況が、
折れ線グラフで掲載されている。
上は「乗る人」と「発送する貨物」。
下は「降りる人」と「到着した貨物」。
(※注:縦軸の利用人数は上下逆転)
太平洋戦争の開戦に合わせ、乗車・降車共に急増し、終戦をピークに減少している。
--- 往時の本津幡駅前では、
出征兵士を送る日の丸の小旗が打ち振られたり、
勤労奉仕に出発する少年少女の姿があったのだろうと想像する。
貨物も発送・到着共に昭和20年をピークに下降。
輸送手段として自動車(トラック)への転換が窺える。
昭和50年(1975年)、開業時から行われていた貨物の取扱を廃止した。
もう一つ「津幡町史」掲載の棒グラフ。
昭和36年の町内各駅利用者数を比較したものだ。
本津幡駅が堂々のトップ。
グラフ上、今と殆ど変わらない駅舎は、
120年近く多くの人を送り出し、多くの人を迎え入れてきた。
もちろん、僕もその1人である。
生家に自家用車がなかったこともあり、
遠方へ出かける際の交通手段は鉄道が主。
本津幡駅から乗り込む鉄路は、子供の僕を日常から連れ出してくれる入口だった。
当時は上下線を渡す陸橋はなく、一旦線路に降りてホームを移動した。
また、当時は電化以前。
ローカル線はディーゼルの匂いと共に走り抜けていた。
更に、当時の切符は硬券。
窓口で行き先を告げ、料金と引き換えに手渡された厚紙に、
改札バサミで切り込みを入れてもらった。
そんなやり取りをした一角も固く閉じたまま。
これも時代の流れ。
致し方ないのだが、記憶に残る光景が消え寂しさを覚える。
忘れてしまわないためにも、これからも時折、本津幡駅を訪れ、
眺めることにしよう。
徒歩や自転車で各地を旅していた頃、
新しい街につくとまず駅を目指すのが常でした。
そこはご指摘のとおり街の中心で、
色々な情報が得られたからです。
また計画を立てる起点になりました。
今でも駅は「出入口」の一つですが、
中心ではなくなったようです。
僕は熱心な鉄道ファンではなく、
過剰な思い入れはありませんが、
時代の変化を映す対象として感慨を抱きます。
それだけ昔は鉄道が身近だったのでしょう。
コメントありがとうございます。
では、また。
鉄道駅の立ち位置も時代とともに変化しましたね。
かつては、駅を中心に街が広がるものでしたが、今は、駅を避けて走るバイパス沿いに大規模店舗が連なるようになりました。
また、希望に満ちた人生の旅立ちも、故郷に錦を飾る凱旋も、そして失意の帰郷も鉄道の駅にありました。
今では、都会や空港に向かうバスターミナルが、鉄道駅に代わったのでしょうか?
僕の故郷は、鉄道のない町でしたが、最も近い鉄道の駅は、スイッチバックになっていてディーゼルカーが、濛々と排気ガスを吹きあげて出発していく光景を鮮明に覚えています。
では、また。