今週はじめから一昨日(2021/03/07~03/11)にかけ、
ネットでもメディアでも「震災から10年」の話題が溢れた。
毎年3・11に訪れる節目の中でも、特に注目度の高いタイミングである。
報道を見るに、ハード面の再建はかなり進んだと感じた。
局地的な事情は異なるだろうが、道路・建物・施設などは、それなりかと思う。
一方、人の営みは未だ道半ば。
街が出来ても、確固とした産業基盤を構築しなければ、
被災前の経済規模レベルには至らないだろう。
原発禍とコロナ禍もある。
ロング&ワインディングロードの果てにある復興は、
「元(過去)に戻る」のではない。
「新しいカタチの創造」ではないだろうか。
--- などと、薄っぺらく偉そうなことを書いている僕の
「10年と2日」を振り返ってみるに、彼の地に対する貢献は、
情けないくらい微力である。
発災から当座はうろたえ、心配した。
少なからず寄附はした。
働いて納めた税金が一助になった。
それだけだ。
あの日の午後2時46分を振り返り、以後の歩みを知るのは大切である。
時が経てば記憶や哀しみは薄れてゆく。
反面、研究者たちによって大地震の真の姿があばかれてゆく。
もっとこうすればよかった。
こう対処すればよりよかった。
自分が暮らす場所で何かが起こった時、どうすればいいのか。
おそらくできることは限られるだろうが、日頃から考えておきたいと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/79/dcb18cb83214c6542360300e61d7ea05.jpg)
津幡町・あがた公園の敷地には、町の「防災備蓄倉庫」が建つ。
中には、食料や保存水などの備蓄食料、
発電機・生活備品といった応急機材などが保管されていると想像する。
これらが活躍する未来は、いつ訪れるか分からない。
10年後かもしれないし、明日かもしれないし、数分後かもしれない。
わが町には「事前復興」の取り組みをしておいて欲しい。
地震に限らず、最悪のシナリオを基に応急対応について計画を練り、
どん底から立ち上がる時の姿を想定しておいて欲しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/c3/87c0cd229dc55c79f01294fd55da6a84.jpg)
小糠雨に降られながら、木蓮の蕾と一緒に「防災倉庫」を眺め、
しばし、そんなことを思った「10年と2日目」の今日だった。
僕自身は、被災の内に入らないほどの被災(自宅の壁に亀裂が入ったとか、二階のキッチンの食器諸々が、ごちゃごちゃに階段を濁流のように落下したとかといった程度の物損です。) ちょうど日本にいるときで、中国から携帯に繋がらなくなったものだから、「Zhen死んだかも」と言われていたようです。何しろ、瓦礫の光景がTVで放映され、東京から北は壊滅的とか、言われていたらしいでから。
その後、中国の友人知人と再会すると、震災があっても、整然と列を作り譲り合う日本人、暴動、略奪が発生しないことなどが異口同音に賞賛されました。はじめて、日本を誇りに思った時です。
それまで、僕は日本を恥ずかしく、情けなく、はっきり言って嫌いでした。海外に対して、何かあると、カネだけ出して済ます、主張しない国。まるで、ワルに睨まれると、ニヤニヤして、カネを渡して見逃してもらう、カツアゲのカモみたいで。
311は、多くの人が悲しむ悲劇ですが、僕は、311が無ければ、一生、過去の日本(世界で信用される先人の功績)に感謝しても、今の日本には誇りを持てぬままでいたような気がします。
あれから10年、僕は・・・・・・・・。
長々と意味不明のことを書きまして、失礼いたしました。
では、また。
天地がひっくり返るような出来事の時に「民族性」が浮き彫りになるのかもしれません。自らを律し自制しながら行動するのは日本人の特性の1つであり美徳の1つですね。
貧しても鈍すな。
鬼道に取り込まれるな。
それもまた、あの大災害が教えてくれた教訓なのかもしれません。
主張しない国。
戦後70年、日本は謝り続けてきましたが、
そろそろ終わりにしたいものです。
では、また。