江戸時代、幕府の「道中奉行」が管理し整備された5つの大きな街道があった。
東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道がそれ。
起点は、いずれもお江戸・日本橋である。
五街道以外の主要な道は、各藩の大名が管轄する「脇街道」。
その1つが、現在の滋賀県から長野県までを結んだ「北国街道」だ。
加賀藩では、北国街道のうち、金沢城から京へ上る道を「上口往還(上街道)」。
城から北、越中から江戸へ下る道を「下口往還(下街道)」と呼んでいた。
金沢市・北森本町に往時の面影が僅かに残り、石川県指定史跡となっている。
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北国街道(旧北陸道)は、藩政時代、最も多く利用された幹線道路のひとつでした。
城下の入り口にあたる下口筋の大樋から柳橋、森本にかけての道筋は、
一般に下口往還とも呼ばれていました。
前田家の参勤交代は、この北国街道を利用して行われ、金沢城から越中を経て、
江戸板橋の下屋敷に入り、衣装を整えてから江戸城に登城したとされています。
加賀藩では、幕府の政策に従い、主な道路の左右に松を植えるようにしたため、
これら諸街道は松並木路として永く親しまれてきました。
しかし、たび重なる風水害や近年における道路網の整備・発展に伴い、
松並木路の多くは改廃され、ほとんど残っていないのが現状となっています。
松並木の旧金沢下口往還は、北国街道の面影を伝える数少ない風景の一つであり、
藩政時代以降の交通を主とした歴史を考える上で貴重です。
(※「松並木の旧金沢下口往還」案内板より)
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「参勤交代(さんきんこうたい)」が、
「大名に一年毎に江戸と領地に住む事を義務付けた制度」なのはご存じの通り。
そのため大勢のお供を従えて行軍したのが「大名行列」。
北国街道を往く加賀藩の場合、人数は2000から4000に上る。
金沢~江戸の往復には8億円を費やしたとか---。
そんな大規模移動だけではなく、庶民も街道を通って旅をした。
当時の交通手段は、殆どが徒歩。
成人男子は1里(≒4km)を50分かけて歩き10分休憩を繰り返して、
1日およそ10里(≒40km)を歩くのが当たり前。
女性でも1日5~6里はこなす健脚ぶり。
しかも、足元は草鞋(わらじ)履きなのだから恐れ入る。
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金沢から津幡町に入ると松並木は跡形もない。
しかし、さほど広いとは言えない道が緩やかなカーブを描き続く様子、
左右に切妻屋根の家々が並ぶ様子を見るにつけ僕は旧街道の姿を偲ぶ。
帰路に際しては、便利なバイパスより、ついこのルートを選んでしまうのである。
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