新潟県への1泊2日小旅行記、続篇。
2日目の行き先は上越市。
ここは、今年・昨年と足を運んでいて三度目の訪問。
<参考リンク:上越高田。~男たちの趨勢と女たちの志。(2022/03)
:立春、上越にて①。(2023/02)>
過去はいずれも冬季だったため行きそびれていた場所があった。
それは“越後の龍”---「上杉謙信」の居城「春日山城」址。
往く手を雪に阻まれ登る事が叶わなかった城址へ、満を持してアタックである。
まずは春日山城の概要を知っておきたい。
【複雑な自然の地形を巧みに利用した春日山城の堅固な城塞は、
難攻不落の天下の名城といわれました。
現在も、空堀や土塁、大井戸など山城の特徴が残ります。
屋敷や空堀が展開する山の裾野に、
延長1.2kmにも及ぶ堀と土塁で総構が築かれている点が大きな特徴です。】
(※【 】内「にいがた観光ナビ」より引用/抜粋)
上掲画像、地図の中ほど、白丸で囲った駐車場から上部星印・本丸天守台まで。
息を切らせて中世の山城を歩いてみた。
山の中腹に立つ上杉謙信公の銅像。
その目線は、上越市街地~日本海を見渡す。
昭和44年(1969年)のNHK大河ドラマ『天と地と』の放映にあたり制作された。
ちなみにドラマで主人公・謙信役を演じたのは「石坂浩二」氏。
大河初のカラー作品で、平均視聴率25%、最高視聴率32.4%を記録した。
防御機能の1つ「塹壕(空堀)」。
野戦の際、敵の進軍を食い止めたり、あえてここを通らせ横矢・横槍を掛けたりする。
同じく敵の侵入を拒む工夫「虎口(こぐち)」。
通路をジグザグに曲げ、すんなり入れなくしておいて飛び道具を使う。
高位置からの攻撃で攻め手が難儀するのは自明の理だ。
上杉謙信が出陣前に戦勝を祈願した「毘沙門堂」。
彼の戦における強さを称え、軍神と呼ばれるようになったのは、
深く信仰していた仏教四天王の1柱、武神「毘沙門天」の化身とされたことに由来する。
ちなみに謙信は生涯妻帯しなかった。
実子(後継ぎ)を作らないのは、当時、極めてレアケース。
その理由の1つに「貴種憂慮」がある。
毘沙門天の血を引く者を世に残すと、将来、幕府や皇室に反旗を翻す勢力に担がれ、
災いの種になりかねないと考えたとか。
また、強さの秘訣としてストイックに徹したとか。
実はゲイだったとか。
実は女性だったとか。
乱世のスーパースターだけに創作の題材にもなりやすく、諸説アリだ。
「天守台」から見た「本丸跡」。
画像では分かりにくいだろうが、山城の規模の大きさに比べ天辺は意外なほどに狭い。
近世の城、例えば大阪城・熊本城・姫路城の天守閣や櫓(やぐら)など、
大きくて重い建物を築くためには、広い敷地と頑丈な土台が必要。
山の地形を利用した石垣のない土づくりの城では、建物は小さくなってしまう。
また、戦国期に於ける大名と家臣の関係は、
絶対君主と従者というより、軍団リーダーと兵員マネージャーに近い。
上意下達の縦組織ではない故に、大名のいる所と有力家臣の屋敷に大差を設けず、
城郭は本丸を中心にしたデザインではなかった。
それにしても、吹き抜ける風が心地よく、眺めもいい。
日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みも一望できる。
改めて、戦・統治の拠点に相応しいと実感した。
--- 汗をかきかき歩くこと、およそ1時間半。
遺構を見て回り、歴史の妄想を逞しくしながら楽しい時間を過ごすことができた。
そして、もう1つのハイライト「春日山神社」を見聞する。
【山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀った神社です。
明治34年(1901年)に、童話作家・小川未明の父である小川澄晴によって創建されました。
日本近代郵便の父・前島密も援助したといわれています。
直線的でがっしりとした神明造の社殿は見応えがあり、
境内に隣接する春日山神社記念館には、謙信公の遺品・資料などが展示されています。
また、小川未明の「雲のごとく」の詩が刻まれた石碑や、
童話をモチーフにした石像なども見ることができます。】
(※【 】内「上越観光Navi」より引用/抜粋)
上越生まれの童話作家「小川未明(おがわ・みめい)」氏には、個人的に感慨を抱いている。
<参考リンク:立春、上越にて②~仄暗き淵に佇む文学~(2023/02)
:仄暗き近代御伽草子。(2023/03)>
春日山神社は、彼が15歳頃~20歳頃まで暮らしたゆかりの地。
未明文学の根幹をなす要素だ。
詩碑「雲の如く」。
雲の如く 高く
くものごとく かがやき
雲のごとく とらわれず
人気(ひとけ)の少ない春日山での少年時代。
遥か日本海を展望する景観の中で彼の目は雲の高みへと引き上げられ、
あらゆる事象を俯瞰する素養が備わった。
一方、辺りの自然と向き合うことで、物言わぬ樹々や地を這う虫に心を寄り添わせた。
前述の大河ドラマではないが、この場所で育まれた「天と地の視点」こそ、
後の童話作家の礎(いしずえ)になった。
--- そんな風に考えるのである。
境内には、作家の父母を弔うモニュメントがある。
「小川澄晴千代之霊碑」の裏には、次の言葉が刻まれていた。
故山長へに父母を埋めて 我が詩魂日本海の波とならん
小川未明は大学進学後、生活と活動の拠点を東京に置き、東京で没した。
だがその志向は、中央ではなく地方。
生涯、心に郷土・上越を抱いていたのだと思う。
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