「弥生時代」のはじまりは紀元前5世紀頃。
終わりは紀元3世紀頃と言われる。
しかし、近年、自然科学の年代測定技術が発達し、
はじまりは更に500年程度早いとも考えられ始めているらしい。
ま、ともかく、現在「津幡ふるさと歴史館 れきしる」で開催中の企画展、
「石川中央都市圏 考古資料展~弥生時代 編~」では、想像逞しくすれば、
今から数千年も昔に暮らしていた大先輩方の息吹を、感じられるかもしれない。
石川県内の4市2町、
白山市、野々市市、金沢市、かほく市、内灘町、津幡町が連携して行う
「石川中央都市圏事業」の一環で開催されるイベントである。
わが町からは「北中条(きたちゅうじょう)遺跡」と、
「谷内石山(やちいしやま)遺跡」の出土品が並ぶ。
「縄文時代」の由来は、当時の土器に多く見受けられる「縄目模様」。
「弥生時代」の由来は、地名。
東京都・文京区・弥生(現、東大農学部と工学部の境)で、
薄手の赤褐色の土器が発見されたことがキッカケだ。
朝鮮半島など大陸から移り住んだ人々によって、稲作が九州北部に伝わり、
やがて東日本まで拡大。
人々は水田に適した場所に村をつくって住み、集落ができた。
また、金属器も伝わり、銅鏡や銅鐸などは祭祀物、宝物に。
鉄器は、武器のほか、農具や工具にも使われた。
栄養豊富な食糧と、その生産をコントロールできるようになった弥生時代は、
「国造り」の礎(いしずえ)となった時期だと言えるだろう。
「北中条遺跡」の発掘調査では、弥生時代の河川跡から大量の土器、木器、石器が出土。
展示品の年代は弥生後期にあたり、完成品が多くあることから
一度に廃棄したものか「河川祭祀」に伴い一括投棄したと推測されるそうだ。
定住化・集団化が進めは、文化や宗教が芽生える。
これらを使っていたご先祖方は、どんな顔をして、どんな暮らしをしていたのか。
遺物を見つめて考えてみるのは、なかなか楽しい時間である。
たっぷり眺め、たっぷり考え、数千年前へ思いを馳せたら常設展示へ。
まだまだ、空想の続きが待ち構えてくれている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます