つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

縁起四方山話。

2022年11月13日 19時19分19秒 | 日記
                        
先日の散歩中「勝﨑館(かつざきかん)」に立ち寄った。



創業120年を超える料理旅館。
銭湯も併営していて、僕も折に触れお邪魔している。
現在『勝﨑の湯』と称するお風呂は、かつて「津幡温泉」を名乗っていた。



時を遡ること200余年。
江戸時代、文化・文政期に発見されたと伝えられる津幡鉱泉。
その地下からの恵みを薪の炎で温め、浴場として創業したのは、明治22年(1889年)。
以来、近隣諸人の身体を癒し続けている。

そんな憩いの施設の正面玄関軒先に、見慣れないモノを発見した。



紅白の水引で結んだ奉書に包まれているのは、どうやら「トウモロコシ」。
紙の文字は「長谷山観音院」とある。
帰宅後に調べてみたところ、金沢市観音町のお寺が出処。
四万六千日分のご利益があるとされる功徳日に祈願した「とうきび」は、
「魔除け」兼、商売繁盛や子孫繁栄の「縁起物」なんだとか。
--- 拙ブログをご覧の皆さまは「縁起を担ぐ」だろうか?

思えば、僕が子供だった頃、亡母に縁起が悪いと諭されたことがある。
夜に爪を切ると親の死に目に会えないからやめろ
理由を尋ねたが、とにかく「ならぬ」の一点張り。
腑に落ちない僕は考えた末に、一つの結論に至った。

照明が発達していない昔の夜は暗く、手元がおぼつかない。
また爪切りの道具も、いわゆる和鋏(わばさみ)。
指を切る危険が高いから、明るい時間帯にするものだ。
そんな意味合いが込められているのだろうと、納得した。

縁起が悪いとされることは他にもある。
霊柩車を見たら親指を隠さなければいけない
雛人形の片付けが遅れると婚期が遅れる
夜に口笛を吹くと蛇が出る】等々。
どれも眉唾である。

さて、オッサンになった僕が、縁起を担ぐ機会はあるだろうか?

--- あった!



競艇の投票をする際に使う「ペグシル」の中から、
1着になって欲しい「色」を選んでマークするのだ。
1号艇・白、2号艇・黒、3号艇・赤、4号艇・青、5号艇・黄、6号艇・緑。
レーサーは乗艇する枠番によって、6つの色に振り分けられている。

不確かな未来に銭を張る時「その色」を手に取るのに、理由も根拠もない。
ただ、祈りがあるだけだ。
                             
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津幡短信vol.107. ~ 令和四年 霜月 。

2022年11月06日 20時20分20秒 | 津幡短信。
                            
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回の投稿は、以下の3本。

【錦秋、到来。】



明日(2022/11/07)は二十四節気のひとつ「立冬」。
「冬が立つ」と書くとおり、冬の兆しを感じる時期だ。
「立冬を迎え、暦の上では冬となりました」
といったフレーズを何度か見聞きするだろう。
なお暦の上の冬は、立冬から立春の前日までを指す。

そんな季節の移ろいに歩調を合わせるかのように、
ご近所のイチョウ並木は、すっかり鮮やかな黄に色づいた。



散歩中に彼方此方で見かける赤も、この時季ならでは。
落葉樹がまとまった「紅葉スポット」ではないが、充分に目を楽しませてくれる。
廃屋(だと思う)の壁を覆う蔦紅葉。
<♬まっかだな まっかだな つたの葉っぱがまっかだな♬>
オジサン、思わず童謡『まっかな秋』のフレーズを口ずさんでしまうのである。



さて、立冬に続く冬の使者は「木枯らし」だ。
吹くたびに葉を落とし、まるで木を枯らすような風の便りが聞こえてくると、
列島上空は「西高東低」の冬型の気圧配置。
寒さも本格化してくる。
物悲しさを誘う地に落ちた葉は、やがて微生物や昆虫の糧となり、
新たな命を育むのだ。
      

               
【実りの秋、到来。】



秋を代表する果実・柿の中で渋柿を甘くするのが、
初冬の風物詩「吊るし柿」。
乾燥させることで、渋柿の可溶性のタンニンが不溶性に変化し、
渋味を感じなくなって甘味が増す。
理屈では分かっているのだが、自然がもたらすメタモルフォーゼは神秘的である。



薔薇の実。
いわゆるローズヒップは、生け花やフラワーアレンジメントなどの花材になる。
また、よく知られるのはハーブティーの材料だろうか。
俗に「ビタミン爆弾」と呼ばれるほど、ビタミンCが豊富らしい。

【芸術の秋、到来。】





(2022年)11月10日まで「第18回 津幡美術作家協会展」が開催されている。
会場は、津幡町文化会館「シグナス」。
日本画、洋画、書道、写真、工芸など力作多数。
機会があれば足を運んでみてはいかがだろうか。
僕が個人的に気に入ったのは、コチラの作品。



タイトル「夢淵」。
読みはおそらく「ゆめぶち」だと推測。
奈良県の山あい、3本の川が合流するところに碧水を湛えた深い淵があるという。
水の揺らぎと魚影が、実にいいなと感心した。
一見、洋画のように思えるが日本画である。
                         
<津幡短信 vol.107>
                    
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風を見る人。~れきしる企画展。

2022年11月05日 21時21分21秒 | 日記
                    
僕たち人類が暮らす地球は「空気」のベールに包まれている。
空気には形も色もなく、目に映らない。
しかし体感することはできる。
それが「風」だ。

日本人は、気温と気圧の差によって生じる空気の流れに対し、沢山の呼び名を付けてきた。
「順風」「逆風」「薫風」「東風(こち)」、
「疾風(はやて)」「旋風(つむじかぜ)」等々。
名前を聞けば、風の表情や情景が脳裏に浮かぶ。
文字通り風情を感じるが、やはりどれも見ることはできない。

今回は、その不可視を見つめた人、
津幡町の俳人「河合見風(かわい・けんぷう)」をご紹介しようと思う。
               


本名「河合屋理右衛門(かわいや・りうえもん)」。
正徳元年(1711年)、津幡宿の商家に生まれた。
家業を継いで以降、旅館と米屋を営み、居村組合頭を勤める傍ら、
俳諧(はいかい)を学んだ。
また、加賀藩の重臣や、京都の和歌の名門「冷泉家」と親交を持ち、
「松尾芭蕉」の句碑建立、「冷泉為広」の石碑を再建するなどした。

こうしたプロフィールを言い換えるなら---
経営者にして村役人。
文化人にして学芸員。
文芸、経済振興のプロデューサー。
なかなかマルチな活躍ぶりなのだ。

現在、津幡町ふるさと歴史館「れきしる」にて「河合見風展~見風と千代女の交流」が行われている。


↑ 見風著 自筆俳諧紀行集「旅のつれづれ」。
 津幡から能登・七尾を経由して石川~富山にまたがる山を越え、
 能登中部の由緒ある神社で神事を見学した旅の記録。


↑ 為広塚碑面。
 「冷泉為広」は、室町幕府中枢の一角を担うも将軍失脚に従い出家。
 能登を治める「畠山(はたけやま)」氏の元に身を寄せていた。
 その墓所が津幡町にあると聞きつけた子孫が、
 加賀藩・前田家の要職者、見風とともに建立した石碑の表面図。


↑ 津幡宿 為広塚周辺図
 「為広」の子孫「冷泉家」から「河合家」に贈られた鳥観図。
 画像中央上部、赤丸で囲んだ中が「為広塚」。
 その下部には津幡川、おやど橋、津幡宿の街並み、見風邸などが描かれている。
 (※実物に赤丸、矢印はない)

「れきしる」館内には、他の展示も多彩。
今回は簡潔明瞭を旨としようと考え「河合見風」に焦点を絞って取り上げたが、
企画展タイトルにある「加賀千代女との交流」に関する品々も注目である。



さて「河合見風」が生涯を閉じたのは、天明3年(1783年)。
享年73。
大西山には、その遺徳を偲ぶ句碑がある。
上掲画像がそれだ。
はつなすび それから花の さかりかな」。
石に刻まれた歌は、彼が心酔したという「芭蕉」の影響が見て取れる。



<見風は家業の多忙に加え持病を抱えていたため
 諸国行脚に出ることはありませんでしたが、見風を訪ねる俳人は後を絶たず、
 ひろく諸国の俳人との交流がありました。>


--- 今企画展解説文を読み、合点がいった気がする。
「見風」は、生まれ育ち生活を営む北陸の片田舎に居ながら、
「風を見ていた」のだ。
訪問者がもたらす情報、時流、出来事、季節、日常など、
世に吹く風を慧眼を以て、つぶさに観察し考察していたのではないだろうか。



「河合見風展~見風と千代女の交流」の会期は、12月4日(日)まで。
時間と都合が許せば、足を運んでみてはいかがだろう。
                      
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3000年前のSister&Brоther&Мate.

2022年11月03日 19時22分22秒 | 手すさびにて候。
                         
英国人「ハワード・カーター」には、自信があった。
古代エジプトに魅せられ、画家から考古学者へ転身し四半世紀近くが経つ。
その間、体の中で燃え続ける情熱が訴えていた。
<彼は、ここに眠っている>--- と。

目星をつけた「王家の谷」の一角、発掘作業が始まって3日目。
地下へと続く階段が、更に掘り進めると封印された扉が出現。
刻印には「ツタンカーメン」!
「カーター」は、ついに夢を成し遂げたのだ。
時に1922年11月4日。
ちょうど今(2022/11/3)から100年と1日前の出来事だった。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百十三弾「ツタンカーメンとアンケセナーメン」。



古代エジプト第18王朝のファラオ(王)「ツタンカーメン」。
僅か9歳で即位し、19歳で他界した少年王は、
歴史の奥深くに埋もれた目立たない存在だった。
それが“世紀の大発見”を機に一変。
考古学上の大スターになったのは、ご存じのとおりである。

小学生の頃、その王墓発掘に関する本を読んだ。
確か学級文庫の中の1冊だったと思う。
僕は、興奮を覚えながらページをめくった。

盗掘を免れた王墓には、死者が来世へ行っても困らないようにと、
食料、ワイン、衣類、家具など、あらゆる生活用品が揃っていた。
また、有名な黄金のマスクや、黄金の棺。
背もたれに王と王妃のレリーフを嵌め込んだ黄金の椅子。
黄金のサンダルなど、数々の遺品も収められていた。
僕は、それら絶大な富と権力を示す副葬品の描写に心を躍らせ、
やがて「献花」の件(くだり)へ辿り着いた。

棺の上には、花が手向けてあったとか。
黒ずんだ草木は、ほのかに青を留めた「矢車菊」。
「カーター」は、王妃「アンケセナーメン」の贈り物だと推測した。

--- 正直、今なら「できすぎ」と思わないではないが、
ピュアな少年だった当時は違う。
先立つ夫に捧げた3000年前の花に込めた思いはいかばかりかと想像し、
盛大にのぼせ上ったものである。
(※花のエピソードについては真偽諸説アリ)

さて「ツタンカーメン」と「アンケセナーメン」は、異母姉弟だったという。
古代エジプト王朝に於いて、近親婚は珍しいことではない。
「王族を特別な存在にする」と考えられていたのだ。
王は神の代弁者であり、神は神と結婚するのだから、王族もそれに倣った。
現代の尺度に照らし合わせ眉をひそめてはいけない。
紀元前の特異なファミリーのハナシである。
また、少なくとも「アンケセナーメン」にとっては悪くない縁組だった様だ。

彼女は生涯3度結婚している。
1人目は、実の父。
次が「ツタンカーメン」。
3人目は、伯祖父(祖母の兄)。

初婚、再々婚に比べれば、
幼馴染みで気心の知れた相手と過ごした時間は、幸せだったと思いたい。
幾つかの仲睦まじいエピソードも伝わっている。
権力争いや陰謀渦巻く王宮で暮らす2人は、
互いを支え合い、慈しみ愛する「マブダチ」のような間柄だったのかもしれない。

(今回の文面は、同カテゴリー過去投稿第十二弾
 「大発見と大衝撃~ツタンカーメン」を元に加筆修正した。)
                               
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