<社説>核禁条約初会議 日本不参加でいいのか
昨年発効した核兵器禁止条約の初めての締約国会議が二十一日から三日間、ウィーンで開かれる。核兵器使用が現実味を帯びる中、禁止を訴える意義は大きい。
日本政府はオブザーバー参加の見送りを正式表明したが、唯一の戦争被爆国である日本の知見が今こそ、求められているのではないか。再考を促したい。
核兵器を巡る環境は、ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、大きく変わった。ロシアのプーチン大統領は核兵器使用を示唆し、核の恐怖が世界を覆っている。
北朝鮮は七回目の核実験の準備を終え、指導者の指示を待っているという。日本では米国の核兵器を日本が共有する「核シェアリング」も浮上している。
核兵器を巡るこうした緊張の高まりを反映して、スウェーデンのシンクタンクは近ごろ、核兵器の使用リスクが冷戦後で最も高くなり、これまで削減が進んできた核兵器の数が、今後は増加に転じるとの予測を発表した。
核廃絶に向けた具体的な行動をとらなければ、核軍拡が加速し、核兵器が多くの人命を奪う最悪の事態を引き起こしかねない。
今回の締約国会議では、核廃絶の手順や核実験を含む被害者への支援、環境汚染の修復を巡って討議する。締約国を増やす方策なども話し合われる見通しだ。
日本からは被爆地広島と長崎の市長が出席、演説し、若者らも締約国関係者と意見交換する。
「核軍縮がライフワーク」とする岸田文雄首相は核禁条約を評価しつつも、条約加盟やオブザーバー参加には一貫して否定的だ。
首相は日本が議長を務める来年の先進七カ国(G7)首脳会議を広島で開催することを決め、今年八月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議には自ら参加することを検討中とされるが、核廃絶に向けた本気度は伝わってこない。
締約国会議へのオブザーバー参加は二十カ国以上で、北大西洋条約機構(NATO)加盟国のドイツとノルウェー、NATO加盟を申請したばかりのフィンランドとスウェーデンも含まれる。
米国の「核の傘」の下でもオブザーバー参加は不可能でない。
核兵器廃絶を訴える日本政府が核禁条約会議だけを無視するのは矛盾する。国際社会の理解を得るためにも、せめて次回からオブザーバー参加するよう求めたい。
<社説>週のはじめに考える 何を守る「安全保障」か
ロシアによるウクライナ侵攻の渦中で迎える参院選。政権与党が戦禍に乗じて問いかけるのは日本の「安全保障」です。防衛費の倍増を主軸に、国の責任として、仮想敵国の脅威から国民の「命と暮らし」を守るため、と。
でも、そうでしょうか。
外敵に備えるまでもなく、戦禍の脅威は既に国境の内に来ています。小麦などの供給危機に端を発した食料価格の急騰は、何より人の「命」に必須の食料だけに節約も厳しい。「暮らし」への打撃は低所得層ほど深刻です。
だけど、国の対策は輸入肥料価格の補填(ほてん)など、供給側向け一辺倒。消費者の苦しい家計には支援の気配すらありません。
底流には、いびつな金融緩和政策の傍ら、長らく放置された格差社会が広がります。増える低所得層に公助が十分届かない。新たな脅威が来るとしわ寄せは弱者に行き、守られるべき「命と暮らし」が守られない。コロナ禍でも見た日本政治の酷薄です。
◆次世代の命も守る責任
この内なる「安全保障」の無策にこそ、私たちは目を見開かねばなりません。
例えば、国の想定より六年も早いペースで進む「少子化」です。
若い人々が将来に明るい展望を開けず、家族を持つことへの期待がうせる。その少子化がまた、社会や経済の活力をそぎ、将来を一層暗くする。悪循環です。
無論、生涯子どもは持たないという個々人の自由は尊重されなければなりません。
しかしながら、人間社会で世代の「命」をつなぐ子どもを産み、育てる営みは、その社会を末永く守り継ぐための根幹でしょう。
ならば国の責任として今なすべきは、次世代にも向けて「命と暮らし」を守るため、少子化の悪循環を断つことです。日々の暮らしに窮する弱者にこそ、将来を明るくする公助が必要なのです。
なのに、これほどの脅威を差し置いて、それでもなお防衛費倍増なのでしょうか。
いや、単に少子化か防衛かの政策論ではありません。ここで私たちが問い直すのは「命と暮らし」を守る政治の責任の果たし方。ひいては国際社会で日本に求められる平和外交の理念です。
話は二〇〇〇年の前後に遡(さかのぼ)ります。国連で新千年紀の一目標として「人間の安全保障」を惹句(じゃっく)とする取り組みが動きだしました。
自国を敵国から守る国家の安全保障とは別に、世界で人々の命や暮らしを貧困、疫病、飢餓などの脅威から守る考え方です。
実は、当時の小渕恵三首相が構想し、国連に設けた基金と有識者委員会が礎になりました。
ノーベル経済学賞のアマルティア・セン教授と、緒方貞子・元国連難民高等弁務官(一九年、九十二歳で死去)=写真=が共同議長を務めた委員会は、〇三年の報告書で弱者を包括的に守る活動を方向付け。これを骨格にした「人間の安全保障」は一二年、国連の行動として定義付けられました。
その理想は「持続可能な開発目標(SDGs)」の基盤ともなって、今に息づいています。
◆平和外交の意義と誇り
再び遡って〇一年。年初にその共同議長に就いていた緒方さんは九月十一日。まさにニューヨークのビル四十階の部屋にいて「貿易センタービルが炎に包まれ、倒壊していく様子」を目撃しました。
その恐怖が冷めやらぬ中で、自問を繰り返すシーンが自著の講演録などに出てきます。テロとの戦いが始まろうとしていました。
いつどこで暴発するかもしれぬテロを相手に、国家の安全保障だけで国民を守れるか。テロの温床ともなり得る脅威から弱者を解き放ち、尊厳ある人生に導く「人間の安全保障」こそが今後、国際活動の主流になるのだろうと。自問は確信へと変わります。
緒方さんはまた「人間の安全保障」が日本主導で提起されたことに、格別の意義を見いだしてもいました。平和憲法の下で経済発展を遂げ、その成果を基に政府開発援助(ODA)などで平和外交に尽くしていた、母国への「誇り」だったかもしれません。
けれども、いつしか近隣国との間に疎通を欠き、近年「内向き」の外交姿勢に傾く日本に対して、緒方さんは独善をこうたしなめていました。「自分の国だけの平和はあり得ない。世界はつながっているんだから」…。
もう一度、問い直します。
それでもやっぱり、防衛費倍増でしょうか。近隣の仮想敵国に備える国境の守りですか、と。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます