横浜へ戻ったら、この怒りをブログにぶちまけよう!
そう思いながら、函館を後にしたのですが・・・
怒りと悲しみが混乱。文章を綴ることが出来ませんでしたが
少し落ち着いた今。やっと、記事にできそうです。
横浜へ戻る11日。
母と一緒に父の病院へ行くために、タクシーの待つホーム玄関へ
移動していると・・・・
ホームの看護師さんが「お早うございます。ごめんなさい。
お忙しいでしょうから、動きながら聞いてください」と、話し始めた。
「昨日、○○さん(父のこと)のところへ行ってきましたが
泣いていました。循環器の先生がきて<○○さんの心臓は
持って3年。短ければ1年と言われた>・・・と」
「えっ!?そんなことがあったんですか?」
「やっぱり知りませんでしたか。私もびっくりしたんですが
娘さんの前で先生が言ったのか・・気になって」
「いいえ。消化器の担当医には癌のことは言わないでと
言ってあるけれど、循環器の先生が??。
わかりました。ありがとう。これから病院へ行くので、確認して
みますが、本当なら、とんでもないことです」
母が元気なら二人で怒りを共有できるが、今の母が知れば
悲しむだけ。母には言えない。
そう思いながら、父のところへ。でも、循環器の先生のことは
何も言わない。ただ、母を見て涙を流す。
やっぱり・・・。私たちには(特に母が可愛そうで)言えないのか。
看護師長が不在だったので、副師長にこの件を訪ねてみると
「確認してみます」とナースステーションに戻った後「循環器の先生が
きたという話はない」とのこと。
なにげなく父に聞くと「白衣じゃなく青い服の研修医たちを連れて
担当医(ここの循環器に通院していた)が来た」
父の意識ははっきりしている。ホームの看護師も「ご自分の症状や
検査項目や順序も覚えているから、事実だと思います」と
言っていた。
おそらく、消化器のナースステーションを通さず、研修医を連れて
自分の患者を<サンプル>として、見せたのだろう。
確かに父の心臓は癌手術はもちろん、胆のう炎の手術もできないほど
弱っている。でも、それを本人に告げる必要はないだろう!
86才まで生きたのだから、あと1年でも3年でもいいと思っての
発言か??
それが患者の心身にどんな影響を与えるかの想像もできない
ドクターらしい。
でも、ここで戦っても仕方がない。この国で「先生」と呼ばれている種族は
人間に対する考え方やセンスの違う人が多い。
日本語が通じない人も多い(もちろん全てではありませんが)。
仮にその張本人に私が詰め寄っても、馬の耳に念仏。糠に釘。
暖簾に(白衣)に腕押し。
そして、今日は母がいる。タクシー&車椅子の移動はかなりの負担になっている。
糠や暖簾と戦う時間はないのです。
こうなったら、あくまでも父の聞き違い。勘違いと思わせるしかない。
「お父さん、循環器の先生も言ったと思うけれど、お父さんの心臓は
大事にすれば長く持つんだって。でも、無理をすると3年ももたないん
だって。だから退院したら、絶対に無理をしないでね」
そんな会話をするうちに、胃カメラ検査へ。
幸い結果は○。胃カメラの後で父がだいぶ疲れていたし、あまりこの件を聞き出すのも
逆効果だと思い、流動食がOKになったと知ってから、私たちはホームへ戻った。
教えてくれたホームの看護師さんにも「同じことを父が言ったら、先生は
無理をしたら持たないと言ってたよ。○○さんの聞き違いだと大嘘をついてほしい」
そうお願いしておいた。
たった1つラッキーだったのは、私が横浜に戻る前にこの件を知ったこと。
戻った後なら・・・そう思うと、ぞっとする。
そして、今日。「タオルケットがほしい」という父からの電話を受けて
母が頼んで持っていってくれた方からの話では・・・
「元気でした。循環器の先生が来て、大丈夫だと言ったそうです」
私からの話を、副師長から消化器担当医が聞き、循環器担当医に
話したのか?・・・それで??
父の妄想ではなく、やはり事実だったのですね。
夫が「その医者、ちゃんと上手く話せたのかな?」
う~~ん。医者兼作家は沢山いるけれど、医者兼役者はいないものねぇ。
まぁ、とりあえず信じて父が元気になったようなので・・・
振り上げた拳は降ろします。
でも、拳はそのまま。
戦いませんが、拳はしっかりと握り覚えておきます。
そして・・・・いつかどこかで・・・・。
トップ写真は、観光名所五稜郭タワーです。
これを撮っていて、展望台が五稜郭の形だと
初めて気づきました。