今日は新聞休刊日とやらで、朝刊の来ない日だ。習慣で、つい外の郵便受けを覗いて「ああ、そうだった」と気がついた。休刊日は毎月1回あるらしい。新聞を読むのは好きだから、来ない日の朝は手持ち無沙汰だ。ニュース専門のテレビチャンネルを見たり、パソコンで新聞社の電子版のニュースを見たりしても、どうも落ち着かない気分だ。
確かに現在では新聞は速報性や映像と言う点ではテレビには遅れをとる。しかし、新聞にはテレビとはまた違ったさまざまな情報が詰まっている。ごく小さなニュースや囲み記事にふと目が止まって、それが意外に印象に残ったり考えさせられたりすることがある。事故や事件のニュースなどはテレビで見るととても胸を衝かれて痛ましいと思うが、次のニュースや他の番組に切り替わると、それで終わってしまう。その点、新聞の記事は場合によっては何度も読み返し、印象や自分の思いを深くすることができる。読者の声の欄などは新聞ならではのもので、共感したり、首をかしげたり、感心したりして見知らぬ人と交流しているような気持ちになる。
所詮私は古いタイプの人間なのだろうし、幼い頃から慣れ親しんだ活字から離れられないのだろう。今の若い人の中には新聞で読むところはテレビ欄だと聞いたことがあるが、それは極端にしても、やはり新聞よりはテレビと言う人は多いのではないだろうか。テレビにはテレビの良さや長所があることは、もちろん承知していて、たとえばドキュメンタリーなどはテレビでこそのものだと思うし、芸術、歴史に関する番組などは圧倒的にテレビのほうが優位だと思う。
それでも私は新聞を手放せない。休刊日にはさびしい思いをする。しかし、毎日の新聞を見ると、よくこれだけの内容と量ものが短時間で編集され、送り出されて来るものだと感心する。新聞製作の現場は見たことがないが、おそらく戦場のような心身ともに疲労の大きな場で、私のようなものにはとても勤まらないだろうと思う。輪転機などのメンテナンスも必要だろう。それを考えると、休刊日があるのもまた当然のことなのだろうと納得している。
確かに現在では新聞は速報性や映像と言う点ではテレビには遅れをとる。しかし、新聞にはテレビとはまた違ったさまざまな情報が詰まっている。ごく小さなニュースや囲み記事にふと目が止まって、それが意外に印象に残ったり考えさせられたりすることがある。事故や事件のニュースなどはテレビで見るととても胸を衝かれて痛ましいと思うが、次のニュースや他の番組に切り替わると、それで終わってしまう。その点、新聞の記事は場合によっては何度も読み返し、印象や自分の思いを深くすることができる。読者の声の欄などは新聞ならではのもので、共感したり、首をかしげたり、感心したりして見知らぬ人と交流しているような気持ちになる。
所詮私は古いタイプの人間なのだろうし、幼い頃から慣れ親しんだ活字から離れられないのだろう。今の若い人の中には新聞で読むところはテレビ欄だと聞いたことがあるが、それは極端にしても、やはり新聞よりはテレビと言う人は多いのではないだろうか。テレビにはテレビの良さや長所があることは、もちろん承知していて、たとえばドキュメンタリーなどはテレビでこそのものだと思うし、芸術、歴史に関する番組などは圧倒的にテレビのほうが優位だと思う。
それでも私は新聞を手放せない。休刊日にはさびしい思いをする。しかし、毎日の新聞を見ると、よくこれだけの内容と量ものが短時間で編集され、送り出されて来るものだと感心する。新聞製作の現場は見たことがないが、おそらく戦場のような心身ともに疲労の大きな場で、私のようなものにはとても勤まらないだろうと思う。輪転機などのメンテナンスも必要だろう。それを考えると、休刊日があるのもまた当然のことなのだろうと納得している。