中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

老いについてのことば(7)

2008-09-05 09:11:37 | 身辺雑記
 自然のままに生きるということは、現代のような環境ではしょせん絵空事にも思える。しかし、人生の大半を自然の中で生きてきた人には独特の人生哲学があるようで、心を惹かれることがある。以下は、アメリカのタオス・プエブロと言う「インディアン」(ネイティブアメリカン)の1種族の古老の語りを聴き写したものの1つである。

 今日は死ぬのにもってこいの日だ。
 生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
 すべての声が、わたしの中で合唱している。
 すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
 あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
 今日は死ぬのにもってこいの日だ。
 わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
 わたしの畑は、もう耕されることはない。
 私の家は、笑い声に満ちている。
 子どもたちは、うちに帰ってきた。
 そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
   ―ナンシ-・ウッド(金関寿夫訳)『今日は死ぬのにもってこいの日』(めるくまーる 1995年)―

(コメント)
 「死ぬのにもってこいの日」が来ればいいと思う。そのように言えるのは、自分に満足し、何も思い残すことのない心境だ。家のポーチで安楽椅子に身を沈め、背後に家族の団欒の声を聞きながら、眠るように死ぬ。物語の中の風景のようだが、そのようにしてこの世を去ることができたらどんなに幸せかと思う。しかし、このような楽天的な死生観は、物質文明の極致である現代社会では望むべくもないことだろう。だが、こんな世の中だからこそ、「死ぬのにもってこいの日」などというものを非現実的なあり得ないものとしてしまうのは惜しい。せめて穏やかな満足した気持ちで死にたいものだと思う。そうすれば、その時が私にとっての「死ぬのにもってこいの日」となるのだろう。