H君夫妻が、知人から送られた新米を分けてくれた。炊いてみるとふっくらと白くてなかなか旨い。久しぶりに旨い炊き立ての米を食べた。
今でこそ白米飯は普通になってしまったが、前の戦争末期や戦後はそうはいかなかった。麦やサツマイモ、大豆などで増量したもので、特に麦飯は黒っぽいものだった。戦争末期には東京の小石川区(現在の文京区)にいた。戦火が激しくなり、東京も空襲の危険が大きくなったので、小学校の児童(当時は学童と言った)は学校ごとに地方へ避難することになった。学童疎開あるいは集団疎開と呼ばれたものである。私が在籍した小学校は宮城県の古い温泉町である鳴子温泉のある温泉宿で生活することになった。
当時の生活は父母から遠く離れた寂しいものではあったが、さほど惨めなものではなかった。未来を担う小国民のためだと言うことで、毎日の食事はきちんと出されたが、それでもだんだんと貧しいものになっていき、米の代わりに水団(すいとん)なども出るようになったし、もちろん肉などはなく、山間部であったから魚も乏しかったように思う。それでもひもじい思いをすることは少なかったようだった。大体あの頃は東京の家にいたほうが食生活は貧しかったのだ。
そんなある日、どういうことでそうなったのかは覚えていないが、私の学校から何人かの者が選ばれて、列車に乗ってある町か村の小学校に行った。今で言う姉妹校のようなものだったのかも知れない。そこで子ども同士の交歓があった後で昼食が出された。内容は覚えていないが、いつも宿で出されるものよりははるかに良いものだったと思う。とりわけ印象的だったのは、米のご飯が真っ白で、とても旨かったことで、今でもそのご飯の感じが思い出されるくらいだ。久しぶりにうまいものを腹いっぱい食べたせいか、その晩は宿に帰って腹を下したことを覚えている。
やがて米軍の東京大空襲で小石川の家は焼失し、両親や弟妹達は大阪豊中の母の実家に移り住み、私と1歳年下の妹も引き取られ、そこで敗戦を迎えた。何ヶ月かたって私は1人で電車に乗って大阪に出かけた。改札口を通り駅がある百貨店の建物を出ると、前方一面は焼け野原だった。そこは大勢の人間で雑踏していて、たくさんの粗末な露天で物を売っていて、その物売りの声がかしましかったが、溢れるような活気に圧倒される思いだった。いわゆる闇市だったが、どんなものを売っていたのか記憶にはない。やはりひもじかったその頃だけに、食べ物が目に付いたが、どうしてこんなに食べ物があるのだろうかと不思議だった。中でも目を惹かれたのは、私とあまり年が変わらないように見える男の子が突き出した手に乗っている真っ白な握り飯だった。その子は「ギンメシだよ」と呼ばわっていた。当時白米の飯は、銀飯とか銀シャリとか呼んでいたが、まさしくそれは白色ではなく銀色に見えたのだ。実際に私には、日の光を受けているその握り飯が眩しく思われたものだ。しきりに食べたいと思ったが、持ち金もなく見過ごしただけだった。
白いご飯を前にして、久しぶりに昔のひもじかった頃のことが思い出された。今では飯の色が白くなっただけではなく、やれコシヒカリだ、アキタコマチだなどと銘柄にもこだわる。実際、米の食味はとてもよくなった。その一方では栄養にも気を遣うようになって、五穀米などと言って雑穀を混ぜることも多くなっている。新米を分けてくれたH君の家では必ず雑穀を混ぜている。奥さんのこだわりらしい。麦飯も見直されてきているようだ。その麦も今では炊きやすい押し麦になっているが、昔の麦は脱穀したままのもので種皮が硬く、米に混ぜて炊く前には麦だけを炊いたものだったが、それでも消化はあまりよくなかった。もちろん米が乏しいときの増量材だから、麦の量はとても多かった。
かつて江戸の人間は白米を食するようになり、その結果として江戸患い(脚気)が増加した。今では白米を食べても、他の食べ物でビタミンBを補うから脚気になることはないが、それでも都会で1人住まいして、日々の食べ物はインスタントラーメンくらいで済ませているような若者の中には、脚気が増えていると聞いたことがある。豊かさの中の食の貧しさがもたらした現象なのだろう。
今でこそ白米飯は普通になってしまったが、前の戦争末期や戦後はそうはいかなかった。麦やサツマイモ、大豆などで増量したもので、特に麦飯は黒っぽいものだった。戦争末期には東京の小石川区(現在の文京区)にいた。戦火が激しくなり、東京も空襲の危険が大きくなったので、小学校の児童(当時は学童と言った)は学校ごとに地方へ避難することになった。学童疎開あるいは集団疎開と呼ばれたものである。私が在籍した小学校は宮城県の古い温泉町である鳴子温泉のある温泉宿で生活することになった。
当時の生活は父母から遠く離れた寂しいものではあったが、さほど惨めなものではなかった。未来を担う小国民のためだと言うことで、毎日の食事はきちんと出されたが、それでもだんだんと貧しいものになっていき、米の代わりに水団(すいとん)なども出るようになったし、もちろん肉などはなく、山間部であったから魚も乏しかったように思う。それでもひもじい思いをすることは少なかったようだった。大体あの頃は東京の家にいたほうが食生活は貧しかったのだ。
そんなある日、どういうことでそうなったのかは覚えていないが、私の学校から何人かの者が選ばれて、列車に乗ってある町か村の小学校に行った。今で言う姉妹校のようなものだったのかも知れない。そこで子ども同士の交歓があった後で昼食が出された。内容は覚えていないが、いつも宿で出されるものよりははるかに良いものだったと思う。とりわけ印象的だったのは、米のご飯が真っ白で、とても旨かったことで、今でもそのご飯の感じが思い出されるくらいだ。久しぶりにうまいものを腹いっぱい食べたせいか、その晩は宿に帰って腹を下したことを覚えている。
やがて米軍の東京大空襲で小石川の家は焼失し、両親や弟妹達は大阪豊中の母の実家に移り住み、私と1歳年下の妹も引き取られ、そこで敗戦を迎えた。何ヶ月かたって私は1人で電車に乗って大阪に出かけた。改札口を通り駅がある百貨店の建物を出ると、前方一面は焼け野原だった。そこは大勢の人間で雑踏していて、たくさんの粗末な露天で物を売っていて、その物売りの声がかしましかったが、溢れるような活気に圧倒される思いだった。いわゆる闇市だったが、どんなものを売っていたのか記憶にはない。やはりひもじかったその頃だけに、食べ物が目に付いたが、どうしてこんなに食べ物があるのだろうかと不思議だった。中でも目を惹かれたのは、私とあまり年が変わらないように見える男の子が突き出した手に乗っている真っ白な握り飯だった。その子は「ギンメシだよ」と呼ばわっていた。当時白米の飯は、銀飯とか銀シャリとか呼んでいたが、まさしくそれは白色ではなく銀色に見えたのだ。実際に私には、日の光を受けているその握り飯が眩しく思われたものだ。しきりに食べたいと思ったが、持ち金もなく見過ごしただけだった。
白いご飯を前にして、久しぶりに昔のひもじかった頃のことが思い出された。今では飯の色が白くなっただけではなく、やれコシヒカリだ、アキタコマチだなどと銘柄にもこだわる。実際、米の食味はとてもよくなった。その一方では栄養にも気を遣うようになって、五穀米などと言って雑穀を混ぜることも多くなっている。新米を分けてくれたH君の家では必ず雑穀を混ぜている。奥さんのこだわりらしい。麦飯も見直されてきているようだ。その麦も今では炊きやすい押し麦になっているが、昔の麦は脱穀したままのもので種皮が硬く、米に混ぜて炊く前には麦だけを炊いたものだったが、それでも消化はあまりよくなかった。もちろん米が乏しいときの増量材だから、麦の量はとても多かった。
かつて江戸の人間は白米を食するようになり、その結果として江戸患い(脚気)が増加した。今では白米を食べても、他の食べ物でビタミンBを補うから脚気になることはないが、それでも都会で1人住まいして、日々の食べ物はインスタントラーメンくらいで済ませているような若者の中には、脚気が増えていると聞いたことがある。豊かさの中の食の貧しさがもたらした現象なのだろう。