H君が『関西弁で愉しむ漢詩』(桃白歩実著、子どもの未来社刊)という本を貸してくれた。題のとおり中国の古い時代の漢詩を関西弁に訳したものだ。適当なページを開いて読むとなかなか面白い。10章になっていて、それぞれにたとえば、「アンタのせいで息も出来ヘン」とか「人生ナンボのもんじゃ」、「お酒止めたら楽しいことあれヘン」というような題がついている。
陶淵明の有名な「帰去来の辞」の出だしはこうだ。
さぁ 帰ろか~
イナカの田畑(でんばた)は荒れ放題や
これは帰らなアカンやろ
心が自由ちゃう世界で
何をウダウダせなアカンねん
と、こういう調子である。もとの詩の読み下しは、
帰りなんいざ
田園将に荒れなんとす なんぞ帰らざる
既に自らの心をもって からだのしもべとなす
なんぞ惆恨(ちゅうちょう)として独り悲しまん
終わりは奇抜な訳で、
舟は遥々としてもって軽くあがり
(舟は揺れて上下し)
風は飄々として衣を吹く
(風がひゅうひゅうと衣に吹きつける)
征夫に問うに 前路を以ってし
(旅人に、これから先の道を問うてみたが)
晨光の熹微(きび)なるを恨む
(朝の光がまだかすかで、見通しが聞かないのが残念だ)
これが次のようになっている。
故郷へ進む夜汽車は
ゴトゴト心地よく揺れる
服をなでる風は
サワサワ心地よく吹く
「今どこらへん?」
と車掌さんに訊いても
日の出はまだで
風景が見えへんのが
残念や
どうにも融通無碍な訳でおかしい。中には関西弁にはなじみのない人が読んだら、また標準語訳が必要になるかも知れないようなものもあるが、少しでも関西弁に慣れていたら、面白いと思うのではないだろうか。方言が見直されている昨今のことだ。同じように鹿児島弁や津軽弁などで訳してみたらどのようになるだろう。
漢詩をこのように扱うのは邪道だと顔を顰める向きもあるかも知れないが、「そやかて、それで漢詩に興味を持つようになるんやったら、かまへんのとちゃうん」という声も出るのではないだろうか。
陶淵明の有名な「帰去来の辞」の出だしはこうだ。
さぁ 帰ろか~
イナカの田畑(でんばた)は荒れ放題や
これは帰らなアカンやろ
心が自由ちゃう世界で
何をウダウダせなアカンねん
と、こういう調子である。もとの詩の読み下しは、
帰りなんいざ
田園将に荒れなんとす なんぞ帰らざる
既に自らの心をもって からだのしもべとなす
なんぞ惆恨(ちゅうちょう)として独り悲しまん
終わりは奇抜な訳で、
舟は遥々としてもって軽くあがり
(舟は揺れて上下し)
風は飄々として衣を吹く
(風がひゅうひゅうと衣に吹きつける)
征夫に問うに 前路を以ってし
(旅人に、これから先の道を問うてみたが)
晨光の熹微(きび)なるを恨む
(朝の光がまだかすかで、見通しが聞かないのが残念だ)
これが次のようになっている。
故郷へ進む夜汽車は
ゴトゴト心地よく揺れる
服をなでる風は
サワサワ心地よく吹く
「今どこらへん?」
と車掌さんに訊いても
日の出はまだで
風景が見えへんのが
残念や
どうにも融通無碍な訳でおかしい。中には関西弁にはなじみのない人が読んだら、また標準語訳が必要になるかも知れないようなものもあるが、少しでも関西弁に慣れていたら、面白いと思うのではないだろうか。方言が見直されている昨今のことだ。同じように鹿児島弁や津軽弁などで訳してみたらどのようになるだろう。
漢詩をこのように扱うのは邪道だと顔を顰める向きもあるかも知れないが、「そやかて、それで漢詩に興味を持つようになるんやったら、かまへんのとちゃうん」という声も出るのではないだろうか。