中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

学童疎開

2009-09-03 09:42:22 | 身辺雑記
 手元に『泣くもんか 疎開学童たちの記録』(島田 雅編 サンケイ新聞 昭和44年)という本がある。40年前のものなので紙も黄ばんでいる。


 編者の島田 雅(ただし)氏は、私が4、5年生のときに在学した東京・小石川区(現文京区)の林町国民学校(現小学校)に勤務しておられた訓導(現在の職名は教諭)だった。林町校は私が5年生の時の昭和19年8月に宮城県玉造郡の鳴子町に集団疎開した。鳴子には小石川区内13校、4千余人の学童が疎開し、集団疎開の規模としては全国一だったと言う。

 山あいの静かな温泉郷の鳴子町は東京とは何もかも違っていたが、そこでの生活は子ども達にとっては決して牧歌的なものでなかった。それでも最初は物珍しさもあり、私は次のように書いていた(同書より)。


父様 母様 お祖父様 お祖母様
 昨日無事につきました。今夜のご飯で、こちらに来て食べたご飯は四度目になりました。
 三度、三度の御飯はあの木鉢に一杯もっていただきます。ですからおなかのすくことなどありません。
 さて此方に来てもう二日になりますが、もう新しいお家にもなれました。帰るまでだんじて泣きごとはいいませんから、御安心下さい。
 今日、はじめて町内見物をしました。温泉神社のある小高い所でまわりを見ました。とてもいい所です。こちらは温泉だけあって、どこへいっても温泉がわいています。そしてどぶまでがお湯なのです。どうです、都会などでは考えられないことでしょう。


 今読み返すと、我ながらその健気さに胸が詰まる思いがする。東京を発つ夜、出発式が始まる前には、父母と別れる悲しさに校庭の鉄棒に頭を擦り付けて泣いたのだが、子ども心にももう泣くまいと決めたのだと思う。実際、その後はどんなことがあっても泣くことはなかった。この本の表題「泣くもんか」はおそらく私のこの手紙の中の言葉から取られたものだろう。

 疎開したのは初めは4~6年生だったが、戦火の拡大につれて1~3年生もやって来た。何しろ都会育ちの子ども達を東北の辺鄙な温泉郷に移動させたのだから、先生方のご苦労は大変なものだっただろう。食糧難の時代だったが、「少国民」を飢えさせてはならないという配慮があったのだろうが、しかしだんだん食料事情は悪くなっていった。その一端が記録されている。

 疎開当初の主食の米などの配給量は次の通りであった。
  米   十歳まで  一日 二合一勺〇三
       十一歳以上 一日 三合四勺〇二
  味噌  一日 九匁(一月二七〇匁)
  醤油  一日 一勺(一月三合)
  塩    一月 二〇〇瓦

  
 毎日の献立も貧しいものだった。林町校の19年9月の献立表の抜粋。

 1日 朝 いも飯 つけもの(きうり、なす)すまし汁(じゃがいも)
     昼 いも飯 つけもの(きうり、なす)煮付け(じゃがいも)
     夜 ご飯 つけもの(きうり、なす)すまし汁(ねぎ、なす、まめ)
 4日 朝 ご飯 つけもの(きうり) 味噌汁(じゃがいも)
     昼 ご飯 つけもの(きうり)にしん煮付け
     夜 ご飯 つけもの(きうり)かつお煮付け
 9日 朝 ご飯 つけもの(きうり)味噌汁(じゃがいも)
     昼 ご飯 つけもの(きうり)豚肉、じゃがいも煮付け
     夜 ご飯 味噌汁(じゃがいも)

 動物性たんぱく質などはあまり口に入らなかった。

 島田先生の日記の一節。
  9月4日  食事(御飯の量)少なし、自分たちは補給の道あれど児童にはない。気の毒なくらい、みそ汁のおけのそこにのこったねぎをとって食べた児童もある。何とかならぬものか。
  9月18日 食料あまりにも不足の感あり。お菜不足、塩をかけて食す。塩が最上の美味とはいかん。自分等はそれでも補充の道あり。児童にもっと食べさせたい。

 林町校の学寮日記から。
  8月28日(月)晴
   児童の話題、家に帰りたいこと、食物のこと、河原にいって、 これはまんじゅう石、 これはコロッケ石などという。温泉神社の所のにおい(硫化水素の匂い)が卵の匂いににているからうれしくていきたい。

 思えばひもじさに耐えた生活だった。そして戦争が終わった後もしばらくはひもじい時代が続いた。 現在の飽食の時代に育っている親達にも子ども達にも想像もできないことだろう。 (続)