中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

学童疎開(4)

2009-09-06 10:06:36 | 身辺雑記
 私にとっての鳴子での集団疎開生活は7ヶ月余で終わった。昭和20年の3月の大空襲で東京は焦土と化し、私がいた祖父の家も焼失した。そんなこともあり、戦火がますます激しくなることは予想できたから、私の両親は死ぬのなら家族一緒にと考えたらしく、私たち兄妹を、すでに父母や弟妹達が移っていた大阪豊中の母方の実家に引き取ることに決め、父が迎えに来た。「泣くもんか」と気を張っていてもそこは子どものことだ、嬉々として鳴子を離れた。

 縁故疎開という名目だったが豊中は都会で、その後すぐに戦火に見舞われた。幸い祖父の家は被災することなく、その年の8月15日に敗戦の日を迎えた。鳴子の消息は聞かなかったが『泣くもんか』には敗戦後の様子が記録されている。山深い温泉町にも米軍が現われ、かなりの不安と恐怖を引き起こしたらしい。

 「進駐軍のアメリカ兵がジープでやって来ましてね。警察署に立ち寄り警察官にピストルを突きつけ人質同様の取り扱い、手振り、身振りで「旅館に案内して妁人を出してほしい」と要求しました。署長は鳴子の現状を説明しましたが聞き入れず署員を無理にジープに引き乗せ、役場で当時兵事係主任をしていた私も同行を強要されました。先ず鳴子ホテルに車を付け、私たちを引き回して土足で部屋の検証を行ったが、子供たちでいっぱいでしたのであきらめ、他に案内することを要求しました。そこで昔の置屋「初音」を訪ねたがここも子供でいっぱい・・・・癇癪をおこしたアメリカ兵は路上でピストルを発射して威嚇して、他の案内を強要しました。(中略)その後もアメリカ兵は土曜日というとジープでやって来て無理難題をぶちまけ、(後略)」(鳴子町助役N氏の回想)

 その後近くの町にMPの駐在所ができて静かになったようだが、戦勝に驕った下級アメリカ兵の日本人をジャップと呼んで蔑視した、粗野で野卑な行動が想像できる。戦争中「鬼畜米英」と教え込まれていた子どもたちや町の人達は、まさにその見本を見た思いがしただろう。このような下級兵士の悪しきDNAは、現在でも沖縄などに駐留する米軍の兵士の一部に受け継がれているような気がする。(続)