中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

学童疎開(3)

2009-09-05 14:23:58 | 身辺雑記
 『泣くもんか』に2枚の色褪せた粗末な紙が挟んである。私と妹の当時の作文で、この本が出された時に編者の島田先生に手紙を差し上げたことがあり、そのお返事とともに送られたものだ。今では私にとっては当時の唯一の証になる貴重な「古文書」なのだが、よく保存されていたものだと、島田先生には感謝している。


 この作文の一部を原文のまま抜書きしてみよう。

 「ラヂオが聞きたくてたまりません。 本など読みたいのですがいぢわるなものはかしてくれません。ちょっと思ふと僕たちは東京の人達よりおくれている様な氣がします」

 もちろんテレビなどは無かった時代だから、家庭での娯楽、情報源といえばラジオだった。東京にいた頃はラジオがない生活など考えもしなかったが、疎開地ではそれが現実で、子ども心にも欲求不満が高まっていたのだろう。職員部屋(本部)には当然あったようで、時折朝礼などで先生からニュースが知らされた。新聞も無かったから、まるで外界から遮断された穴居生活をしているようなものだった。その中での集団生活では、意地悪する者はいたし、嫌がらせやイジメもあった。幼い者の世界と言っても、大人社会の縮図のようなものだ。

 「妹と僕は部屋が違ひますから、なかなか會へません。同じ舊くゎん(旧館)の上なのですが、相手が女の子のいっぱいいる部屋ですからちょっとちゅうちょします。東京にゐた時の事を思ふと變な氣がします。けんくゎもしました。いっしょの部屋であそんだり、宿題をやったり、ねたりした事がふしぎな氣がします。ちょっとすれちがってもおたがひになつかしさうにするのがおもしろい」

 4年生だった妹は、東京を出発するときにはまるで遠足にでも行くようにはしゃいで校庭を飛びまわり、両親にもろくに別れも言わなかったが、疎開地の生活に入るとたちまち音を上げてしまった。それでも幼いのによく頑張ったと思う。初めのうちは同じ班だったが、後には別の班になった。この作文はその頃のものだ。最後の頃は別の旅館に分かれた。こうして読み直してみると、あの頃の生活や、東京でのことがいろいろ思い出されてくる。(続)