中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

半世紀の付き合い

2010-05-02 11:20:39 | 身辺雑記
 Hr君に「あんた達とはもう50年の付き合いになるね」と言うと、彼は「そうですよ。半世紀です」と応じた。「半世紀か。長いなあ」と今さらのように言ったことだった。

 いつも集まって食事するメンバーの中心になったり、ドライブしたりするHr君やHg君たちは私と一回り違う今年64歳で、私が教師になってから4年目の1961年に入学し、生物クラブに入ってきた。熱心なクラブ員だった彼らは、思う存分高校生活を享受して卒業したが、卒業してからは1学年上級のU君たちとOB会をつくった。OB会と言っても女性の卒業部員ももちろんいて「オーバー」などと冷やかしたものだった。名簿上では今ではもう200人くらいになって、先日もそのうちの50余人が集まった。

 Hr君たちの学年はとりわけ活気があって、彼、彼女らが活動していた頃は、部員数は60名以上となり、全校一を誇っていた。あの頃は私も若かったからクラブの顧問として連日彼らと活動をともにし、あまり熱心に打ち込んだので、当時生まれて間もない長男を抱えていた妻は「度が過ぎます」と私をなじり、険悪な空気になったこともあった。その妻も校内最大のイベントである文化祭のクラブ展示を観に来たり、部員達と知り合うようになってからは理解をするようになり、親しんだ。とりわけHr君たちの前後の部員達には親しい感情を持ったようだったから、卒業後も機会があれば 彼らと付き合っていた。彼らも妻とは親しみ、私の子ども達を可愛がってくれた。妻の病が余命少ないことを知ると、たくさんのOB達を集めて会を開いてくれた。自分の病状のことは何も知らない妻は嬉しそうだった。妻の葬儀の時にOB会の代表が読んだ弔辞の中に「生物部のお姉さん、お母さんとして」というくだりがあり、彼らと一緒にいる時の妻の笑顔を思い浮かべて私は涙した。

 そのような時代から、早や50年、半世紀の歳月が過ぎ去った。私も教育委員会の事務局に異動したりして身辺が慌ただしく、仕事も忙しかったので、彼らと付き合うことはほとんど無くなったが、退職するとまた復活して今に至っている。特に近年はHr君やHg君達やその仲間とは、月に1回は集まって昼食会をするなど楽しみが多い。

 思い返せば50年の歳月の間にはいろいろなことがあり、少なくない卒業部員を喪う悲しみもあったが、やはり教師になって良かった、とりわけ「あの時代に」、「あの高校で」、生物部の生徒達に出会ったことは貴重なことだったと、折に触れてしみじみ思う。私は幸せ者なのだろう。