中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

トマト

2010-05-05 09:28:20 | 身辺雑記
 池波正太郎の『江戸の味を食べたくなって』(新潮文庫)は味の通人のものらしく面白く読める本だ。池波正太郎はテレビ化もされて人気のあった『鬼平犯科帳』や『仕掛け人藤枝梅安』、『剣客商売』などの時代小説で有名だが、その中でさりげない江戸の料理の描写があって、私もテレビで楽しんだものだ。この本の第1章は「味の歳時記」と題して、一月から十二月までの昔の味を懐かしむエッセイが収められているが、その八月は「トマトと氷水」で、その中に次のような一節がある。

  子供のころ、私はトマトの皮を剥いてもらい、種を除(と)り、小さく切ったのへ醤油をかけて食べるのが好きだったが、小学校も五年生になると、弁当のほかに、
 「おばあさん。一つ持って行くよ」
 祖母にことわり、台所から一つトマトをランドセルへ入れ、昼食の時に塩をつけて食べる。
 「よくそんなものが食えるね」
 と、同級の生徒たちがいった。 
 彼らは、ほとんど、トマトが嫌いだったようである。
 トマト独特の、あの匂いを嫌がったのだろうが、いまのトマトには、いくら、あの匂いをもとめても消えてしまっている。

 このくだりを読んで、そうだ、そうだと頷いた。

 先日スパゲッティに使うために,赤く熟したトマトを2個買い、1個を冷蔵庫に入れておいた。冷やしてそのまま食べればうまいだろうと思ったからだ。しかし、いざ食べてみると味は浅く、匂いもなくてさっぱりうまくないのでがっかりした。最近のトマトに濃い味やトマトくさい匂いを求めても無駄だと分かっていたのに、赤く熟したその姿につい惑わされてしまった。

 トマトのあの匂いが懐かしい。夏の朝早く、まだ露が残っている頃に、庭に植えた株に生った冷たいトマトをもいでかぶりつくのは楽しみだった。食べた後は葉をつまんで押し潰し、指を鼻先に近づけて嗅ぐと、これも独特の青臭い匂いがするのが好きだった。近所の百均ショップの店先に、トマトの苗が並べられていたので、葉をつまんでみたが匂いはなかった。昔もトマトの実や葉の匂いは普通にはくさいと敬遠されていたのだろう。まして無味無臭のような今時のトマトしか知らない子どもに、昔のようなトマトを食べさせたら、きっとくさいとかおいしくないなどと言うだろう。トマトは色だけのものになってしまったのだろうか。寂しいことである。

 私の妻はトマトに砂糖をかけて食べた。いかにもミスマッチのようで、よくそんなことして食べるねと言うと、おいしいよと肩をすくめ、ニコニコしながら言ったものだ。砂糖は願い下げだが、池波正太郎が子どものころにしたという、醤油をかけて食べるのはどうだろう。一度試してみよう。しかしそれよりも、どこかであの懐かしい匂いのするトマトが手に入らないものだろうかと思っていたら、Hg君たちと藤やシャクナゲの花を観に行った折に途中にあったJAの売店で、これはどうだろうというのを見つけた。そばにいた女性の店員が、これはちゃんと土で育てたものだからおいしいですよと言ったので買って帰り食べてみると、確かに味は濃く、適度に酸味もあって昔のトマトに近かった。そうするとトマトのあの好きな匂いには土の香りが含まれていたのだろうかと思った。