年をとると気が短くなり、怒りっぽくなるとよく言われる。実際これまでにもあちこちで、人前も憚らずに大声で怒っている老人を見たことがあるが、何か惨めな感じがしたもので、自分がああなっては嫌だなと思ったものだ。生来温和な性格の者が、年をとると気短かで怒りっぽくなることはあまりないのではないかと思うのだが、その点では若い頃の私は気が短いところがあって、今思うと慙愧の念に耐えないのだが、妻にも怒りを爆発させたことも少なからずあった。生徒に対しては教師という自覚があったからか、滅多に大声で怒鳴ったことはなかったし、もちろん手を上げたことはなかった。
そんな私だから、年をとるともっと気が短くなる恐れもあった。しかし殊更に自覚して自分を抑えるということもないのに、年をとるにつれて気が短いことがなくなってきた。温和な好々爺というのには程遠いが、この10年以上もひどく腹を立てた覚えがない。気が長くなったのかどうか、あまりよく分からないが、いらいらすることは確かに少なくなった。人との接触が少なくなり、猫と吞気に独り暮らしをしているからかも知れない。
そうは言っても、むっとすることは少なからずある。現に先だってもこのブログに関していささかむっとしたことはあった。それでもひどく腹が立ったということではなかった。なぜこんな言い方をするのだろうかなあということで収まってしまう。まあ、むっとするくらいは誰にもあるだろうと思う。むっとしても、それをあからさまに顔や仕草に出さなければいい。どうせ行ない済ました聖人君子ではないのだから、人前で恥ずかしげもなく怒りを爆発させなければ、それくらいは許してもらえるのではないか。
しかし、感情にませて怒ることは抑えなくてはならないが、この社会の不条理や不正義に対する怒りは失いたくない。残念ながら今の世の中には、醜くい嫌なことが多い。そういうことを見聞きしても、まあそんなこともあるさというような、いかにも物の分かったような弛緩した状態の心にはなりたくない。独りで怒(いか)ってみてもどうなることもない、そんなことでカッカとするのは馬鹿らしいと、訳知り顔をするようになってはおしまいだと思う。よく幼い子どもを親が虐待死させる話を聞くが、こういう時にはどうしようもない怒りがこみ上げるし、昨今の政治のありようや、福島県に対する風評や差別には怒りを抑えられないものがある。先日も書いたが、前の経済産業大臣の辞任の記者会見の際の一部の記者の傲岸不遜な態度には心底怒りがこみ上げた。
正義漢ぶるつもりは毛頭ないが、不正不条理を憎み憤る心は麻痺させてはならないと思う。大げさな言いようだが、それをなくすと私自身の堕落だと思うし、そのような人間が多くなれば社会がいい加減な雰囲気になるのではないだろうか。