自分でもバカだなあと思うのですが、今でも時々妻は本当に死んだのかなと思います、特に夜、消灯してから暗い中でじっとしている時や、目覚めの時に思います。もう13年もたつのにいまだにどうしたことかと思いうのですが、そういう時にはいろいろと妻がもういないのだという「証拠」をあれこれと思い返して自分を納得させます。それでも何か思い切れないものがあります。特に今頃は寂しさ一入の秋ですから、その思いが強いのかも知れません。未練がましいとは思うのですがどうしようもありません。
これは前にも書いたと思うのですが、妻が逝く前の年の晩秋に、次男がドライブに誘ってくれ、彼の妻子も一緒にこの近辺をただ当てもなく回ってくれました。息子にしたら、少しでも母親と一緒に過ごす時を持ちたかったのかも知れません。秋の陽はたちまち落ちて辺りの田舎の景色が夕闇に包まれると、しきりに寂しくなって「寂しいなあ」とつぶやきました。妻は笑って「お父さんはすぐに寂しいと言うんだから」と明るく言いました。妻自身や幼い孫たちの他は、妻はもう長くないのだということを知っていましたから、「来年はもういないのだな」と思う私の寂しさはいつもの秋とは違って深いものがありました。運転している息子は黙っていましたが、涙もろい性格で母親思いですから、おそらく涙をこらえていたのではないかと思います。あの時の明るい妻の声は、今も思い出します。
これを書いている今も、もうとっくに日が暮れて近所では物音もしないし、人声も聞こえません。こうして独りでいますと家の中には何の気配もせず、妻がいないことは嫌でも分かります。こういう時は独りの寂しさがいっそう身にしみます。
私の知っている私よりも少し年下の女性は何年か前に夫を亡くしていますが、死んだ者を想っても仕方がない、おいしいものを食べたほうがいいとサバサバしていますが、何度もそれを聞くたびにそんなものかなと、何か味気ない寂しい人柄のように思えてきます。