中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

お節料理

2006-11-14 08:42:03 | 身辺雑記
 百貨店では11月早々からお節料理の予約が始まっている。このような特設売り場がいつごろから設けられるようになったのか記憶は定かではないが、そんなに古いことではないように思う。しかし最近はなかなか繁盛しているようで、いつ売り場の前を通っても予約客らしい人が店員と相談している。ちょっと覗いてみると、1万円くらいから3万数千円くらいまでの見本が陳列してある。蝋細工だから派手な色彩をしているが食欲をそそられるものではない。去年はもっと高い、5~6万円くらいのものが出ていたと思うが、すぐに完売されて感心したものだ。有名高級料亭のものなら10万円以上するとも聞いたことがある。どうしてこのようになったかについては、働く女性が増えたからとか、家ではあまり品数は多く作れないし面倒だからとか言われているがどうなのだろうか。

 お節料理と言うものは、以前は(今でもそうだろうが)それぞれの家で作るものだった。私が子どもの頃は年末になると母が忙しそうに作っていた。我が家は関東風の雑煮で切り餅を使ったから、父は平たくのした餅を硬くならないうちに切り分けたり、屠蘇の準備をしたり、箸袋に家族の者の名前を墨で書いたり、門松の準備をしたりしていた。年末の慌しい風景だが何かしら懐かしい。母が作るお節料理は、特に特徴のあるものではなく、どこの家でも作るような昆布巻き、ごまめ、きんとん、甘く煮た黒豆、厚焼き卵、筑前炊き、煮しめなどで、近頃のような海老や肉類はなく彩りも地味だった。元来は正月の間の主婦の骨休めのための保存食だから、裕福な家庭ではいざ知らず、賑やかに飾り立てるものではなかったのだろう。子どもにとってはそれほど魅力的なものではないが、それでも戦中戦後の時代にはやはり普段とは違う感じがして、嫌うことはなかった。今はあの種類も多く、色彩豊かなものでも子どもは1回食べると飽きて、ハンバーグが食べたいなどと言ったりするそうだ。

イソップ物語の「酸っぱい葡萄」のような負け惜しみを言うようだが、店に並んでいる豪華なお節料理も、実際に口にしたらそれほど飛び抜けて美味いものではないのではないかと思う。ある知人から聞いたことだが、つてがあって一流料亭の、それこそ10万円以上はするだろうと思われるものをもらったことがあったそうだが、三が日が過ぎても食べ残し、結局捨てたと言う。もったいないような話だが、冷たいものばかりだし、日持ちするために味は濃い目になっているだろうから、どんなに高価な食材を使っても知れたものだろう・・・などと言うのは、所詮は高級なものを口にしたことのない者のたわ言か。

私も妻もそれなりにお節料理を作っていた。息子たちが独立し2人だけになるとしだいに作る品数は少なくなったが、それでも年末は夫婦で分担して、ささやかだがお節料理らしきもので元日を迎えることはずっと続けた。やはり年が改まるからにはそれなりのけじめがほしかった。しかし妻がいなくなってからはそのようなけじめもなくなり、一人用の出来合いのお節料理で済ませるようになっている。こうして我が家では、「おめでとうございます」と言い交わすこともなく、正月の雰囲気はなくなってしまった。独りの生活でもきちんとして元日を迎える人はあるようだが、私が怠惰なのだろう。年末年始には殊更に妻がいた頃のことを懐かしく思い出す。


新聞休刊日

2006-11-13 11:19:18 | 身辺雑記
 今日は新聞休刊日とやらで、朝刊の来ない日だ。習慣で、つい外の郵便受けを覗いて「ああ、そうだった」と気がついた。休刊日は毎月1回あるらしい。新聞を読むのは好きだから、来ない日の朝は手持ち無沙汰だ。ニュース専門のテレビチャンネルを見たり、パソコンで新聞社の電子版のニュースを見たりしても、どうも落ち着かない気分だ。

 確かに現在では新聞は速報性や映像と言う点ではテレビには遅れをとる。しかし、新聞にはテレビとはまた違ったさまざまな情報が詰まっている。ごく小さなニュースや囲み記事にふと目が止まって、それが意外に印象に残ったり考えさせられたりすることがある。事故や事件のニュースなどはテレビで見るととても胸を衝かれて痛ましいと思うが、次のニュースや他の番組に切り替わると、それで終わってしまう。その点、新聞の記事は場合によっては何度も読み返し、印象や自分の思いを深くすることができる。読者の声の欄などは新聞ならではのもので、共感したり、首をかしげたり、感心したりして見知らぬ人と交流しているような気持ちになる。

 所詮私は古いタイプの人間なのだろうし、幼い頃から慣れ親しんだ活字から離れられないのだろう。今の若い人の中には新聞で読むところはテレビ欄だと聞いたことがあるが、それは極端にしても、やはり新聞よりはテレビと言う人は多いのではないだろうか。テレビにはテレビの良さや長所があることは、もちろん承知していて、たとえばドキュメンタリーなどはテレビでこそのものだと思うし、芸術、歴史に関する番組などは圧倒的にテレビのほうが優位だと思う。

 それでも私は新聞を手放せない。休刊日にはさびしい思いをする。しかし、毎日の新聞を見ると、よくこれだけの内容と量ものが短時間で編集され、送り出されて来るものだと感心する。新聞製作の現場は見たことがないが、おそらく戦場のような心身ともに疲労の大きな場で、私のようなものにはとても勤まらないだろうと思う。輪転機などのメンテナンスも必要だろう。それを考えると、休刊日があるのもまた当然のことなのだろうと納得している。

リニア・モーター・カー

2006-11-11 10:20:44 | 中国のこと
  9月22日にドイツで試験走行中のリニア・モーター・カーが事故を起こし、多数の死傷者が出た。リニアの事故で死者が出たのは初めてのようで、リニアでは世界のトップを走っていたドイツは大きな打撃を受けたらしい。その少し前の8月11日には上海のリニアが走行中に火災を起こしたが、幸い人的な被害はなかった。

  上海のリニアは世界唯一の営業用路線で、上海市内の浦東(Pudong)新区の龍陽路(Longyanglu)駅と浦東国際空港駅間の30キロを最高時速430キロ、約7分で走行している。もちろんドイツ製で、2002年12月31日に開通した。中国語ではリニアは線性発動機牽引列車と言うが、上海のリニアの正式名称は「上海磁浮列車」と言う。

 開通してほぼ1年後の2004年1月に友人の唐怡荷に誘われて、帰国する機会に乗ってみた。龍陽路駅を出発して4分くらいで時速431キロに達したが、すぐに減速して程なく浦東国際空港駅に到着した。何しろ7分間だから呆気ない感じで特に感動することもなかった。外を見てもそれほど高速とは感じなかったが、これは唐怡荷の説明では窓ガラスに特殊な加工がしてあって速度を感じないようになっているのだそうだが、理屈はよく分からない。
 





  その時にも思ったことだが、いったい何のためにこのような短い距離にリニアを走らせる必要があったのだろう。将来、上海と杭州の間に造る路線のテストだとも聞いたが、無駄な投資のような気がしてならない。7分で走行すると言ってもそれほど便数が多いこともないから、普通の電車路線を造って特急を多く走らせればむしろ便利なのではないか。実際、営業的にもあまり成果を挙げていないようで、運賃をかなり引き下げても利用者はさほど多くないようだ。上海の「金看板」の1つらしいが、営業用、観光用どっちつかずの中途半端なものだと思うし、言葉は悪いが最近経済的にますます発展している上海の、何やら見栄のようにも思える。今後また乗ってみようとは思わない。


年賀状を作る

2006-11-11 10:02:51 | 身辺雑記
 毎年のように8月を過ぎると、急に日が過ぎるのが速くなるような気がする。「秋の日は釣瓶落し」の季節になるとなおさらだ。そして、早やもう11月半ば近くなった。年賀状の発売は始まったし、百貨店ではお節料理やお歳暮の予約をやっている。クリスマスのメロディーも聞こえる。何とも慌しいことだ。

 そう思いながらも、パソコンに向かって年賀状を作った。何しろ枚数が多いから早目にやっておかないとパソコンに何かあると困るからという言い訳のようなことだ。やはり年賀状は出したい。これまでに何人かの知人から今年で最後にするという年賀状をもらったことがあるが、何かしらその人の年齢以上に気力の衰えのようなものを感じて寂しい気持ちになったものだ。年賀状は受け取るが出さないと言う人もいるが、これはその人の考えだからとやかく言うことではないだろう。

 私は元気でいる限り年賀状作りは続けるつもりだ。今年はどんな写真を入れようか、どんな文章にしようかなどとレイアウトを考えながらパソコンに向かうのも楽しいものだ。以前は12月になる前に印刷に出し、できると毎日少しずつ書いていった。表書きだけだが大変な労力だった。勤めている頃には大晦日はもちろん、元旦を過ぎてもしばらくは書いていたことがあった。今では暇は十分にあるし、パソコンで作るということもできるから楽になった。せめて表書きくらいは直筆でと言う人もいるが、私は悪筆だからパソコンができて本当に助かっている。実際、受け取る年賀状の大多数はパソコンで作ったものになっている。実に見事な字を書かれるある方でも、いつの間にか表書きにはパソコンを使うようになられた。時代の趨勢ということなのだろう。

  しかし、パソコンでの年賀状作りは確かに私のようにかなりの枚数を出す者にとっては便利でいいものだが、それでも何かしら機械的に処理しているような後ろめたい気持ちもある。昔は年が改まって一家で屠蘇や雑煮、お節で元旦を祝った後で、おもむろに年賀状書き(作りではない)をしたものだと聞いたことがあるが、今ではそういうことはほとんどないのではないか。私の義弟は新年になってから出して、親戚のある婦人から、年賀状は元旦に「届く」ようにするものですとたしなめられたとか、かなりの年配の人でもそんな意識になってしまっているのだろう。

  何はともあれ、今年も年賀状を作れるのは元気で過ごしている証しなのだと感謝しながら、とにかく仕上げた。来月半ばになってから印刷して投函し、それで新年を迎えることになる。

江南の旅-嘉興のちまき-

2006-11-10 08:59:04 | 中国のこと
 嘉興(Jiaxing)は上海の市街地から小1時間の所にある浙江省の東端の市である。市の中心部にはきれいな湖があるそうだが行ったことはなく、高速道路のそばにあるパーキングエリアで休憩するだけだった。ここで粽子(zonziちまき)を売っている。これまでにも行ったことがあるが、今年はみやげ物店や粽子の店はきれいに改装されていた。



 嘉興の粽子は中国でも有名だそうで、それもあってか大勢の客で賑わっていた。粽子は三角堆形で大きな笹の葉で包み、糸で縛ってある。中身は醤油で味付けた糯米の飯に豚肉、栗、卵黄などの具が入っていてなかなか旨い。1個は200グラムくらいもある大きなものだが安いもので、大肉入りと言う普通のもので3.5元(約50円)くらいである。大きな水槽のようなものの中に入れて暖めていて、客はこれを持ち帰ったり、その場で食べたりする。



 粽子は本来は旧暦5月5日の端午節に食べるものだ。戦国時代(前403~前221)の楚の国の王族であった屈原(quyuan)が妬まれて失脚し、隠遁した湖南省の汨羅(Miluoべきら)のほとりで楚の都が秦に攻め落とされたことを聞き、嘆いて河に投身し国に殉じた。村人達は彼を悼んで祭り、いろいろな供物を供えるようになった。その後、後漢(25~220)の時代に欧回(Ouhui)と言う人が河のほとりで三閭大夫(屈原)と名乗る人物に出会い「毎年端午節に私を祭り、供物を河に投げ入れるので魚がみな食べてしまう。供物を芦の葉で包み糸で鋭角状に縛れば、魚は菱(ヒシ)の実と間違えて食べなくなるのでそうしてほしい」と訴えられたことを村人達に伝えたと言うのが、粽子の起源だと伝えられている。


江南の旅-烏鎮②-

2006-11-09 10:53:17 | 中国のこと
 鎮の中を流れる 運河の風景は、なかなか情趣がある。水に面した民家、運河をまたぐ石造りの橋など昔からの烏鎮のたたずまいだろう。






 遊覧船に乗ってゲートまで戻ったが、いかにも古鎮に遊ぶという感じで、非常に静かで、ゆったりとした気分になった。








江南の旅-烏鎮-

2006-11-08 21:26:27 | 中国のこと
 紹興から杭州を通って上海に向かう途中に桐郷(Tongxiang)と言う所がある。高速道路でここに来たら左折して3、40分行くと烏鎮(Wuzhen)に着く。ここは江南地方に多い水郷の1つで、かなり大きい鎮である。以前は自由に出入りできたらしいが、今は大きなゲートがあり、入場料(1人100元=約1,500円、団体80元)を払って入る。ゲートの前には欧米人や国内の観光客が多く見られた。

 しばらくは狭い小路を通って行く。小路の途中には民家のほかに、造り酒屋、藍染の工房、木彫やベッド、貨幣などの小博物館がある。



 造り酒屋「公生糟坊(Gonshenzaofang)」。坊は手工業者の仕事場の意味。三白酒(sanbaijiu)と言う白酒を造っている。

「おじいさんが若いときに呑んだ酒。上海で買えない唯一の酒」とある。(2002年)

 
大きな甕の中でもろみを発酵させている。


醸造の様子。(2002年)


甕の中で熟成させる。


藍染の工房「宏源泰染坊(Hongyuantairanfang)」。染めた布を干している。



工房には売店もあっていろいろな小物を売っている。かなり安い。私の干支の鶏の人形を買った。



木彫博物館で。



ベッド博物館の豪華なベッド。(2002年)


江南の旅-紹興⑤-

2006-11-07 17:51:39 | 中国のこと
 ホテルに面した道路の向こうに自由市場の建物があり、朝食前に行ってみた。まだ早かったので買い物客は多くはなかったが、中の店はもう開いていたり準備したりしていた。さまざまな生鮮食料品や乾物、加工品など、種類も数も豊富だった。デコレーションケーキや雑貨も売っていた。人が集まって来たらかなり混雑するのだろう。興味を引かれて見飽きなかった。

果物




野菜。日本にはないもの、どういうものなのか見当のつかないものもあった。



魚。水槽の中で跳ね泳いでいて、いかにも新鮮そうだ。タウナギなど日本では食材にしないものもあった。



鳥の加工品。隣の店では犬の肉も売っていた。


 
豚肉。中国の自由市場ではおなじみの光景。大きな塊で売る。スライスしたものなどはない。



鳥類。アヒルや鶉など生きたまま売っていて、客は買うとそれをぶら下げて、市場の中の捌くことを専門にしている店に持って行く。実に手早く捌いていた。



市場の外に朝食を売る屋台が出ていて、仕事に出かけるような人達が立ち寄って買って行く。注文すると油条(youtiao)と言う細長い揚げパンを、クレープのような薄い餅(bing)と言う皮に包んで渡す。油条は中国では豆乳に浸けたりして、朝食としてよく食べられる。おいしそうでもあるし、作る手際がいいのでしばらく見物していた。

 

晩秋の田

2006-11-06 11:54:33 | 身辺雑記
 稲の刈り入れが終わって1ヶ月あまりが過ぎた。その間に刈り取られた後に残った株から新しい芽が出て、暖かい日が続いたためか、葉が青々と伸びて、初夏の水田のように見える。


 
 前に京都大学農学部出身の若い知人から聞いたことだが、彼が在学中に新入の後輩達を連れて農村に演習に出かけた時、ちょうどこのような光景に出会った。すると後輩の1人が「田植えが終わった頃なんですね」と言ったので、農学部に入ってくるような者が稲作のことを何も知らないのに呆れたそうだ。特に農学を学びたいというのでなく、高校の成績で農学部なら入れるだろうというような進路指導するからこんな学生も来るのだろう。もう20年も前のことだが、今ではそのような学生がもっと増えているのかもしれない。

 近寄ってみると小さな穂が出ている。指でつまんでみると、中は実の入っていない殻だけの「しいな(粃)」ばかりだった。



 今でも米の二期作をしている地方があるのかは知らないが、しているとしたら今頃は2度目の実りの時期を迎えているのかも知れない。10月に行った杭州の余杭では、よく実っていたが葉はまだ青く、日本より少し遅いなと思ったら、ガイドの許さんが、このあたりは二期作ですと言った。

江南の旅 -紹興④-

2006-11-01 10:11:28 | 中国のこと
 紹興の臭豆腐(choudouhu)も名が知られているようで、西安の李真も謝俊麗もおいしかったと言っていたので、ぜひ食べようと思っていた。魯迅記念館を出た後で路地に揚げている臭いが漂っていて、見ると中年の女性が小さな屋台で売っていた。1串注文すると2センチ角くらいの揚げた豆腐を5、6個刺して甘いたれと辛いたれをつけてくれた。一口噛むと特有の香りを感じたがたいしたことはなく、それよりも揚げたての豆腐のうまさが気に入ってしまった。表面はかりっとしていて中がやわらかく水気がある。食べていると、これは病み付きになりそうだと思った。その後で上海の豫園商場でも紹興臭豆腐と称して売っている店があったが、この店のものはまったく臭いはせずおいしく、紹興では臭いがするだけで避けていた卒業生のH君に食べさせたら、家で鉄板で焼く豆腐と同じだと言った。これからは中国に行けば臭豆腐を食べる楽しみができた。ちなみに西安の謝俊麗の夫の劉君は臭豆腐は嫌いで、道で臭いを嗅ぐのも嫌がるそうだ。中国人はみな好きなのかと思っていたが、そうでもないらしい。




 東湖を出た所に、みやげ物を売っている店が並んでいて、いろいろな物を並べていたが、その中の一軒の店の柱に「臭腐乳」と黒地に白い文字で書いた札が貼ってあるのを見た。ガイドの徐さんに、あの腐乳は臭いのかと尋ねたら「トイレの臭いがします」と答えた。つまりはアンモニア臭がするのだろう。色は黒いのだそうだ。色が黒くてトイレの臭いでは、何やら想像を逞しくしてしまって、視覚、嗅覚相伴ってとても受け付けられるものではないだろう。好奇心が強く、腐乳が好きな私も、さすがに買う気は起こらなかった。後で謝俊麗に話したら、彼女のおばあさんは好きなのだそうだ。好きな人があればこそ売っているのだろうが、それにしても奇妙な、おぞましいような食品もあるものだ。

 それにしても、臭豆腐と言い臭腐乳と言い、わざわざ食べ物に「臭い」と言う言葉を冠しているのは、正直と言えば正直だがおかしくもある。もっとも日本にも「くさやの干物」があるか。いったん好きになると、臭(chou)も香(xiang)に思えるようになるのかも知れない。