中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

敬老の日

2008-09-15 18:55:38 | 身辺雑記
 もうとっくに敬われる対象の年齢になっているのだが、この日に自治会の行事に招待されるわけでもなし、まして市長や職員が表敬に訪れてくれるほどの記録的な高齢者でもない。この長寿社会ではいたって平凡な普通の年寄りだ。無職人だから世間では祝日で3連休だと言ってもいつもと同じだ。「15日は敬老の日」と言われても、ああそうだったかと思うくらいで気楽なものだ。ことさらに老人だ、高齢だと思うことがないのも良い。

 日本の、いや、世界の最長寿の男性は、宮崎県都城市に住む田崎さんという人のようで、今月で113歳になるのだそうだ。私より37歳も年上だからたいしたものだ。この人は今も元気で、外出は家族から止められているが、家の中では介助もなしに歩き回っていると言う。「長寿の秘訣(ひけつ)は酒を飲まないこと」と言っているそうで、「百薬の長」とは無縁の長寿らしい。3度の食事もきちんととっているとのことで、このあたりが独り身の私とは違うのが羨ましい。男女合わせての長寿世界一が目標ということで、「後10年は生きる」のだと、さすがに耳は遠くなっていても元気だ。長寿者と言っても寝たきりの生活で、1日は眠り1日は目覚めているという日本最高齢者の人もいたが、その点この人は訪れた市の職員の対応もし、活きているという印象だ。

 75歳以上の人口は、1321万人。総人口の10.3%を占め、現行の統計方式が始まった1950(昭和25)年以来初めて1割を超えたそうだ。私もその1人。後30年しないうちに100人に1人が100歳以上の高齢者になると言う。その頃まで生きれば私もその仲間になるのだが、高望みはしないで、この元気なご老人にあやかるように良い生き方をしていきたいと思う。


                 


中秋

2008-09-15 00:02:56 | 身辺雑記
 9月14日は旧暦8月15日で中秋名月の日、中国では中秋節である(ただし本当の満月は15日になる)。この日には月餅を食べるのが慣わしだ。今年も西安の謝俊麗(シェ・チュンリ)から月餅がたくさん送られてきた。

         

 中秋は陰暦8月の異称で、暦の上では秋なのだが、日本、特に西日本ではまだまだ蒸し暑さが残り、夜空の空気も澄み切っているとは言えない。しかし西安のような中国の北の地方では天気さえよければ、涼しい夜気の中で鏡のような名月が見られるだろう。日本では今年は10月13日が陰暦9月15日でこの日の夜が満月になる。こちらのほうが季節感からすると中秋名月らしいのだろう。ちなみに「8月15日」という姓があって、「なかあき」と読むのだそうだ。「なかあき」はすなわち中秋である。

 今年は残念ながら曇り空で、月はぼんやりしていた。



総裁選挙

2008-09-14 09:30:41 | 身辺雑記
 自民党の総裁選候補者達の「地方遊説」が始まったようだ。NHKのニュースで、大阪での街頭演説会の様子を見た。

 5人の候補者の演説は、全部が収録されているわけではなく、一部をつまんでいるものだが、どれも明らかに総選挙を意識したもので、中には民主党の名前こそ挙げないが、当てこすったような言い方をする候補者もいた。わざわざ大阪弁で話してもいいかと断って話し始める候補者や、ことさら大阪弁を交える候補者もいて、その大衆迎合的な調子が何かしら気色が悪かった。

 これが総裁選挙の一環なのか。そうであるならば大衆の前で互いに舌戦を交わすべきで、これでは総裁選挙を利用した総選挙戦のようなものだ。露骨で鉄面皮な手法だと思う。野党に対して不公平ではないか。それに首相が突然職を投げ出した結果として自分達がそこに立っているのだから、まだ国民には詫びの一言も言っていない首相に代わって詫びるくらいのことがあってもよい。5人のどれもこれまで何らかの形で内閣や党で地位なり発言力を持ってきた者ばかりだから、それくらいの責任感はあるべきではないか。まるでこれまでのことは他人事のように、これからのことにいくら美辞麗句を並べても信用できない。

 新聞報道によると最有勢と目されている候補者は、首相に就任したら他の候補者を総選挙の顔として内閣や党の要職で処遇する方針を固めたという。初めから本命とされている馬が他の馬に人参を投げながらレースで走っているようなもので、このような状態でこれから後も「遊説」を続けるのか。馴れ合いの茶番劇、出来レースとしか言いようがない。

 それにしても、NHKのこの総裁選の取り上げ方は少々過剰ではないか。民放の報道の内容は見ていないが、またもや劇場型政治に国民を誘い込んでいるように思う。程ほどにしてほしい。

              


老入(おいれ)

2008-09-13 09:31:51 | 身辺雑記
 『日本人なら身につけたい江戸の「粋」』(植月真澄 河出書房新社)という新書版の本を読んだ。江戸時代の町人の生き方の根底には「粋(いき)」というものがあったことを述べたもので、粋な生き方は現代にも通じるものが少なからずあるという内容だ。

 その最終章の「人生を『粋』に仕上げる」の最初に「老入」という言葉が出てくる。初めて見た言葉だが、広辞苑にも「オイイレの約」とある。これは今で言う老後の意味だが「老後ということばにふくまれるネガティーブなイメージは感じられない」と著者は言い、さらに続けて言う。

 江戸の人々は、この日を楽しみにし、この日をどう迎えるか、以降の日をどう生きるかを考えていたのだ。「老入」の〝老い″には、生命を重ねて生きる〝生い″のイメージも含まれているのである。

 老入を迎えたらどうするのか。望むのは楽隠居であった。家督を息子に譲り、自分は、趣味などかねがねしたかったことを楽しみながら老いの日を送ることが善しとされていたようだ。「好き」を追い求めるものだ。それに、この本に引用されている江戸中期の俳人であった与謝蕪村の「とし守夜(もるよ)老いはとふとく見られたり」の句のように、老人の知恵と長年蓄積された情報が珍重され、年寄りは社会に欠かせない存在として認められていたという。その日暮らしの庶民の老入もこうであったかのかは疑問が残るが、とにかくいつまでもあくせくと働くことは考えなかったのだろう。

 翻って今を見ると、簡単には老入の日は迎えられない。60歳の定年を迎えても年金はすぐには受け取れない。その年金もさまざまな問題を生んでいる。世の中の変化は急速だから、老人の知恵を求められることもほとんどない。楽隠居など遠い時代の話だと言う人は多いだろう。また功なり名を遂げても、財界人や政治家のようにいつまでもその地位に留まって、生臭さを漂わせる向きもある。もちろん芸術家や文芸に携わる人はいくつになっても自分の道を追い求め、深めていて、それはそれで尊敬すべきなのだが、多くの無名の庶民は楽隠居もできず、さりとて生きるために仕事をすることもままならぬ。

 私自身はいわゆる年金生活者で、ある意味では気楽な生活をさせてもらってはいるが、楽隠居というイメージには遠い。それに、まだまだ浮世のことを慨嘆したり、理不尽さに怒りを持つことは多い。生臭さが抜けきれないのだろう。それにこの本を読んでいて、私の生活に最も欠けていると思われたことは、もう伴侶がいないことだ。水野澤斎という人物が紹介されていて、彼は『養生辨』という書を著し、その中で「身を修めるは夫婦和合を以ってはじめとなす」と言っているそうだ。この本の著者は、何もかもわきまえた古女房ほど心休まる存在はないということに落ち着いたのだと言う。よく理解できることだ。私は老入を迎えてから妻を喪った。いまさら喪った者を追い求めても詮無いことだが、もし生きていれば今の生活はもっとしっとりしたものになっているだろうにと思う。

まだ暑いのに

2008-09-12 09:39:11 | 身辺雑記
 郵便局に行ったら、年賀状予約のポスターが貼ってあった。窓口の女性に「もう予約が始まるの?」と尋ねたら、「お願いします」と言って申込書を渡してくれた。受け取ったが、ずいぶん早いなとちょっと驚いた。例年なら11月頃になると予約が始まったと思うが、2ヶ月近くも早い。確か去年は年賀状がだいぶ売れ残ったようだから、今年は早めに予約を取って、できるだけ需要数を確定したいのか。民営化になると大雑把なことはできないのかも知れない。しかし、まだ歩けば汗ばむようなこの頃に年賀状の予約などピンとこない。

 ハンバーガーの店に入って休んだら、店の隅にクリスマスのチキンの案内のリーフレットが置いてあって、またまた驚いた。申込書も付いていて、予約締め切りは12月22日になっている。まだ3ヶ月以上も先のことだ。今年の年末は鶏が品不足になる見通しということでもあるまいし、今頃申し込むような気の早い者はいるのだろうか。

 なぜこのように気ぜわしくなってきたのだろう。百貨店での正月のおせち料理の予約がだんだん早くなってきているが、このぶんだとおせちの予約も来月あたりから始まるのか。何かせきたてられるようで、落ち着かない。

 昔は年末を控えて何となく心慌ただしくなるのは師走に入ってからで、それがまた季節感を誘ったものだった。野菜などはもうとっくに旬などはなくなっていて、季節感を味わうこともない。年末が近くなって年賀状の予約が始まると、そろそろ正月のことが頭に浮かび、今年はどんな年賀状にしようかと考えたりするのだが、このように残暑がまだ厳しい時には、年賀状どころか冬物の衣服のことも頭には浮かばない。

       ついでに、これも早めに。
      
       

劇場型政治

2008-09-11 09:49:48 | 身辺雑記
 首相が突然その座から降りたことで、後継者選びの騒ぎが大きくなっている。総裁選の告示日には、女性や若手を含めて5人が総裁の候補者として名乗りをあげた。例によってその中の3人は世襲議員だ。

 これからこの候補者達は、全国17カ所で街頭演説を行うのだそうだ。衆院選の選挙運動との連動を強く意識した総裁選にするらしい。そしてそれに、野次馬やサクラが大部分の「聴衆」が押しかける。このようなイベントはいったい何のためにやるのだろう。いくら「開かれた総裁選」と称したり、街頭でそれぞれの「政策」を叫びたてても、総裁を選ぶのは一般の国民でなく、党所属の国会議員と各都府県連の代表各3名の528人だけだ。いわば1つの党のコップの中の嵐なのだ。総選挙に連動すると言っても、私達国民は実際の総選挙の際に、各党の政策をよく検討してそれぞれの意思表示をすればよいのだ。

 もちろん衆議院での多数党の総裁が内閣総理大臣になることは決まっていることだ。だからと言って、あたかも総裁選には一般国民も参画しているかのような錯覚を起こさせることはおかしい。いかにも対立候補がなく無投票で党首が選ばれた野党第1党に比べると、我が党にはこれほどの活力があると誇示して、総選挙を有利に運ぼうとする思惑があるようだ。国政に対してそれほどの活力があるのならば、2代続けて首相が行き詰って、職を投げ出すことなどなかったはずだし、またそのような資質の人物を自分達の代表に押し上げることもなかっただろう。告示日の街頭演説で「今日から党は変わるのです」と言う候補者がいて、そういう言い方もあるかとおかしかった。変わり身が早いと言うことか。それとも、これまではよほど悪かったと反省しているのか。

 よく知られているように、このように選挙前に国民を巻き込んで派手に立ち回ることは前々首相から始まり、「劇場型政治」と言われた。マスコミも国民もその手法に踊らされ、熱に浮かされたようになり、雪崩を打つように与党に圧倒的な数の議席を与えた。今ではそのツケがあちこちに回っていることも指摘されているが、前首相も現首相もその多数の上に安住し、選挙の洗礼も受けずに来て、結局は次々にその座を投げ出した。今回の総裁選立候補者達の中から選ばれた新総裁も、自動的に内閣総理大臣、日本の首相となる。総選挙を経ずに国政の最高権力者の座に着くのはこの2年足らずの間で3人目となる。これはいくら憲法の規定だからと言ってもどうにも納得できない。

 首相の座にある者は、その職を辞するなら総辞職して国会を解散し、総選挙を行い国民の信を問うべきだ。少なくともそのくらいの覚悟が必要ではないか。自分は辞めるからと、次の総裁と目される有力議員に後はよろしくと言って辞めるのは国民に対して無責任すぎる。自党のことだけを考えて国や国民のことは念頭にないと言われても仕方がないだろう。

 これからしばらくは、また各地の街頭は騒がしくなるのかも知れない。しかし劇場型政治はもうたくさんだ。マスコミも面白おかしく騒ぎ立てるのは止めてほしい。1つの党のトップ選びなどに国民を駆り立てることはいらない。今国内には問題が山積し、国会運営は行き詰っている。社会には閉塞感が強い。国民の多くは総選挙を期待している。そこに民意を集中するように客観的な情報を提示していくのがマスコミの役割ではないか。かつてのように「刺客」がどうのこうのと面白おかしく騒ぎ立てるような低劣なことは、まともなジャーナリズムのすることではない。

 政治はショーではないし、政治家は芸能人ではない。私達の日々に直結しているものであり、その担い手であるはずだ。前々首相の時のように女子高校生までキャーキャー騒いだり、前首相のときのように「イケメン」だとか「毛並みが良い」と浮かれたりするような軽佻浮薄な関心の持ち方は、国民の政治に対する意識の低さを露呈することでしかない。今のような政治情勢、社会の閉塞状況に厳しい目を向け、怒りをもたなければならない。愚民だけにはなるまい。


       乱立
                   

                  

キウイフルーツ

2008-09-09 08:29:44 | 身辺雑記
 街で生花店を営むMさんの家では、いろいろな植物を植えていて、いろいろと目を楽しませてくれている。今はキウイフルーツが実っている。
 
 もう40年以上も前のことになるが、ある時妻と、まだ幼かった長男を連れて買い物に出てスーパーに入った。あれこれ眺めていると、見たことのない小さな楕円体の果物が目に止まった。緑色を帯びた茶褐色で、表面に短い毛が密集している奇妙なものである。札を見るとキウイフルーツとある。興味を惹かれたので手にとって眺めていたら、私が新しいものが好きなことを知っている妻は、「およしなさいな。そんな変なもの」と牽制した。今のように山積みされたものではなく、少しだけ置いてあったので、いかにも珍しい果物という印象だった。そのときにそれを買ったかどうか記憶は定かではないが、これが私にとって初めてのキウイフルーツとの出会いだった。その後食べてみる機会があったが、甘酸っぱくてさっぱりとはしているが、それほど美味なものとは思わなかったので、以来我が家ではあまり買ったことはない。

 キウイフルーツは、ニュージーランドの飛べない鳥であるキウイに似ていることから名づけられたと言うが、それほど似ているとは思えない。


 それでもその名称から何となくニュージーランド原産と思われるようだが、原種はオニマタタビ(シナサルナシ)という中国中部原産の植物で、これが20世紀初頭にニュージーランドに輸入され、栽培、改良されたものだ。現在は各国で栽培されていて、最大の産出国はイタリア、次いで中国、ニュージーランド、その他となっている。

 今では普及してデパートやスーパーなどではたくさん並べられている。最も普通のものはヘイワード種と言うものらしいが、最近ではゴールド・キウイと言う品種も出まわっている。

ヘイワード種


ゴールド・キウイ




Mさん宅のキウイの棚


蕾(雌花)


 雄花(左)と雌花。雄株と雌株とがあるので、受粉させるには両方を植える必要がある。
  

受粉後間もない果実


しだいに大きくなっていく。








 表年と裏年があるようだが、今年は表年らしく、よく実をつけている。この秋にはたくさん収穫されるだろう。



騒がしい子ども

2008-09-08 09:17:54 | 身辺雑記
 昼にある店に入って食事をしていると、けたたましい子供の叫び声が聞こえた。キーッという金属性の、耳から頭に突き抜けるようなヒステリックな声だ。

 この店にはちょっとした座敷のようになっている部屋があって、掘り炬燵式の長いテーブルがある。その部屋に幼い子供連れの若い女性が4、5人いた。仲間同士誘い合って来たらしい。もう一通り食事は終わって談笑している様子だったが、子ども達は退屈したのか追いかけっこのようなことをして走り回っている。どれも2~4歳の子どもで男の子も女の子もいる。それがキャーキャー叫びながら母親達の周りを走ったり、テーブルの下にもぐりこんだりしている。まことに騒がしい。見ていると、「静かに」というように唇に指を当てる母親もいるが、その時だけ子ども達はおとなしくなってもまた騒ぎ始める。母親達は話に夢中のようだが、よくこのような騒がしい中で話ができるものだと、ちょっと感心した。

 私は子どもが好きで、とりわけ幼い子はとても可愛いと思うのだが、甲高い声は苦手だ。まして金属製のキーッという声はたまらない。これは息子達が幼い頃からどちらかというと低い声だったし、また大声で叫ぶこともなかったせいもあるかも知れない。次男などは泣き声もオンオンというように低かった。妻も低い声だったから、我が家では甲高い声はなかった。遺伝するものか、4人の孫達の声も低いほうだ。

 それにしてもこの母親達、子どもの甲高い声には慣れているのだろうが、いくら別室を使っていても、店内にはほかにも客がいることに気を遣えばいいのにと思った。若い人にありがちな自分の世界以外のことには無関心なのだろう。それにもう少し強く子ども達をたしなめたらいいのに、いかにも甘いとも思った。プライベイトな空間以外でのマナー、振る舞いというものは幼い頃から躾けておく必要がある。今は公私の区別が曖昧になっている者が増えているから、長じては電車の中で飲食したり化粧したりするのだ。

 何となく落ち着かなくなって、そそくさと食事を済ませ席を立った。レジで支払いをする時に、係りの若い女の子がにこやかに何か言った。聞き返したら「やかましくて申しわけありません」と言ったのだった。ちょっとうるさかったねと言って店を出たが、その子の心遣いが何となく嬉しくて、温かい気持ちになった。

パンダ嫌い

2008-09-06 14:09:41 | 身辺雑記
 書店で名前は知っていたが、これまで開いてみたことのなかった雑誌を手にとって見た。一見したその内容からかなり右派的な雑誌のようで、この号は「偽りの『日中友好』などいらない」という中国批判記事を特集していて、その中に「レンタル・パンダなんて突っ返せ」という記事があった。筆者はコラムニストやらの肩書きだが、テレビのワイドショーでコメンテイターとして出演しているのを何回か見たことがある。ちょっと興味を惹かれてざっと読んでみたが、いささか驚いた。

 冒頭、筆者は「そもそも私はジャイアント・パンダが大嫌いである」と切り出している。人には好き嫌いがあるから、大方が可愛い動物と思っているだろうパンダが嫌いだと言う者がいてもおかしくはない。それでも「大嫌い」と言うのはいったいどういう理由なのだろうと思ってみると、要するに先に発見されたのはレッサーパンダなのに、後から見つかったジャイアント・パンダが、パンダ一族の正統を簒奪したというのがその理由らしい。確かにレッサーパンダの標本が発見されたのは1773年、ジャイアントパンダの毛皮が発見されたのは1864年で、当初はレッサーパンダがパンダと呼ばれていたが、ジャイアントパンダが発見されるとやはりパンダとされ、区別するためにその大きさからジャイアント、レッサー(小型の)をそれぞれ冠するようになったのが経緯である。単なる動物分類学上の問題で、それがどうしてこの筆者の言うような「パンダ一族の正統を簒奪した」ということになるのか。そもそも「パンダ一族の正統」とは何なのか。素人じみた主観的で笑止な論というほかはない。

 実はこれはこの記事の出だしであって、彼の言いたいことは中国がおこなってきたジャイアントパンダの国際的な贈貸与の批判にあるのだ。それを言うためにパンダの悪口を持ち出したとしか思えない。彼はこうも言う。 (中国が)倫理や道徳や国際的な約を束ごとを踏みにじって、理不尽な居座り、開き直りをするあたり、ジャイアント・パンダは支那のシンボルにふさわしい・・・・と。ここまで書くと、もう中国憎しの感情が先立って、何の罪もないパンダを犠牲に仕立て上げているように思えてくる。

 A4ワイド版のこの雑誌の2ページを占めるこの記事の後半は、中国の「パンダ外交」は欺瞞だと言う論に終始しているが、それはさておいて彼は中国を「支那」と呼び「中国」とは言わない。ここには彼の中国蔑視観が示されている。「支那」はかつて我が国では学術論文にも使われていた呼称であるが、今では蔑称として中国人は嫌う。もう死語扱いになっているようで、私のパソコンで「しな」を入れても「支那」には変換しない。それを一部の日本人がことさらに使う場合には明らかに中国に対する反感、何よりも蔑視がある。だいたい、ある国が名乗っている正式な国名、あるいは略称をいくらその国が嫌いだからといって他の呼称で呼ぶのは、節度がないし傲慢である。少し違うが、JAPは日本(人)に対する米国人が使う蔑称だった。今それを使う者がいて、いくらこれはJapanあるいはJapaneseの略称だと強弁しても納得する日本人はいないだろう。この論者は中国の主席も胡錦濤と呼び捨てである。よほど自分を中国に対して高みに置いているようで、小者ぶりが露わである。

 彼の文章は「あの目のまわりの黒い模様をホワイトで消してみるがいい。ただの凶暴な熊が現われる」と結んでいるが、そこまでパンダ(中国)が憎いかと言いたくなる。テレビで彼の発言を聞いていると、右派的傾向があり、嫌中国感情を持っているらしいとは何となく感じていたが、ここまで強烈な反中国論者だとは思わなかった。この雑誌は創刊当初はリベラルな編集方針だったのが、今では「保守愛国を志向する購読者層の要望に応える内容を売りとする硬派な雑誌として人気がある」(Wikipedia)のだそうだ。だから彼も執筆者に選ばれたのだろうが、このように書き散らしたような、人の中にある低い感情を煽るような文章でも共感が得られるのか。「保守愛国」が反中国と重なるところが何か悲しい。

             

 


残暑

2008-09-06 10:40:55 | 身辺雑記
 9月に入って少し朝夕は涼しくなったように思うが、日中は相変わらず暑い。

 ちょっと外出して帰ると、汗びっしょりになり、顔にも汗が滴り落ちている。たまらなくなってシャワーを浴びても汗は流されるが、体を拭くとまた汗が噴出してきて、ぬるぬるした感じでかえって気持ちが悪い。

 中国語でも残暑(ツアンシュウ)と言うが、秋老虎(チョウラオフ)とも言われる。これは立秋後の暑さのぶり返しを表す中国北方の口語だそうで、なぜ虎(老虎)なのかは知らないが、立秋を過ぎて涼風が立った頃に現われる猛虎というイメージは何となく分かるような気もする。去年は西安の李真などには「今年はまだ秋老虎がうろついているね」と言ったりしたが、今年の西安にはもういないようで羨ましい。立秋などの二十四節気はもともと中国の北方で創められたものだから、季節の変化は立秋や立春などの暦と一致しているようで、李真も「立秋を過ぎたので涼しくなりました」と言って寄越した。今年の立秋は8月7日だったから、こちらでは猛暑のさなかだが、西安あたりではもう涼風の季節に入ったのだろう。

 空や雲の様子は秋らしくなってきたが、どうやら今年も残暑は厳しいようだ。