(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(28)
信じられない出来事(2)美千子の涙

綾乃ちゃんが突然亡くなった原因については、最後まで解明できません。
うつぶせ寝の状態で発見されたということが、当時問題視されはじめた
突然死の事故ではないかと言う見方も出てきました。
しかしまだ、この時代の日本の小児医療の世界では、
乳幼児が突然亡くなると言う病気の存在自体が、認知されはじめたばかりです。
アメリカ留学から帰ってきた小児科医が、たまたま病院に居合わせていたことから、
この病気についての可能性が喚起されました。
その可能性についての検討がはじまったものの、
もう一つの壁が、原因究明のための障害になってしまいます。
この時代では、死因解明のためとはいえ、乳幼児を
解剖するということは皆無に近く、きわめて稀な例にすぎません。
「これ以上、綾乃に辛い思いはさせないで・・・」
その美千子のひとことで、すべてが終わってしまいます。
警察でも、綾乃ちゃんの口の周辺へまとわりついていた
柔らかい毛布と、シーツの存在が問題になりました。
しかし、生後間もない乳幼児とは異なり、すでにハイハイもできて
つかまり立ちまでもできた綾乃ちゃんが、無抵抗状態のままに、
窒息したとは考えにくいものがありました。
結局、突然死の可能性もあるという曖昧な表現を残したまま、
死亡原因を特に強調せずに、きわめて稀な例という注釈を付けながら、
不慮の事態が重なり合ったことによる、乳幼児の窒息事故と言う見解で、
病院側の意見が決着をしました。
捜査本部でも、保育園側による過失の可能性については
有る程度まで言及はしたものの、それが致命的な死亡原因として
断定できるまでには至りません。
後になってから原因究明のために、急きょ参加した小児科医の意見も取り入れて、
突然死の可能性を考慮して、刑事事件としては取り扱わずに、
園長先生の事情聴取も終了しました。
ほぼ3日間にわたった調書作成のために
園長先生が、すっかり疲れきってしまいます。
3日目の聴取が終わった直後、その足のまま園長先生が
美千子の自宅を訪ねました。
美千子は無言のまま園長先生を招き入れ、小さな祭壇の前まで案内をします。
あどけない笑顔を見せる綾乃ちゃんの肖像を見つめる園長先生は、
小さな声で、いつまでも語りかけています。
想いを届けきったその後に、美千子の前で居ずまいを正した園長先生が
畳へ届くまで、深々と頭を下げました。
そして、そのまま動きません。
美千子が園長先生の肩へ手を置きます。
いたわるように抱えて、ようやく立ち上がらせます。
そのまま無言で、玄関先まで園長先生を送って出てきます。
何度も頭を下げる園長先生を、美千子は深く頭を下げたまま見送りました。
レイコは何もできず、ただ横からずっと美千子を支えたままです。
美千子はあの日以来、レイコにも口をきいてくれません。
取り乱す様子でもなく、ひどく落ち込むこともなく、
日を追うごとに悄然となりながらも、それでも、傍目には
気丈に振るまい続けています。
綾乃ちゃんをおくるための、ひと通りの葬儀が終わると
美千子の自宅からは、あれほどいた人の気配が完全に消えてしまいました。
人の喧騒が去り、祭壇だけが残された部屋からは、
物音ひとつさえ、まったく聞こえなくなってしまいました。
上の3歳になるお兄ちゃんは、美千子があの日から、
実家へ泊めたままでした。
居間のソファに腰掛けた美千子が、
ぼんやりと、暮れかけていく窓の外を見上げています。
レイコはその様子を、廊下からそっと覗きこんだだけで、そのまま
静かに立ち去ろうとします。
「レイコ?」
ここへきて初めて美千子の声が、レイコを追いかけてきました。
「来て。」
美千子は今も喪服のままです。
着替えようともせず、通夜の時から今日の葬儀の終わりまで、
ひときわ細い体を、黒い喪服に包んだままです。
レイコが美千子の近くへ、静かに腰を下ろします。
何も言わずに、美千子がレイコの肩へもたれかかってきました。
レイコも、ためらいながら美千子の肩をだきます。
「ありがとうね、レイコ。」
顔をうずめたまま、小さな声でささやきます。
返す言葉が見つからず、レイコは肩にまわした指先へかすかに力をこめました。
秋の日暮れは早く、薄黄色い光が満ちてきた部屋の中へは
いつのまにか、夕闇も一緒になって舞い降りてきます。
美千子の白い横顔も、いつしか時間と共に暗い影の中へ沈んでいきます。
「暗いままで、いい。」
電気をつけようとするレイコの気配を察して、美千子が否定をします。
闇が深さを増す中で、時間だけが静かに流れていきます。
ふと肩先で揺れた頭越しに、そっと目がしらをぬぐう美千子の気配がありました。
何もできないでいるレイコは、再び指先に力をいれるだけです。
「こころに何だか、ぽっかりと穴があいちゃった・・・
ありがとうね、レイコ。
もうすこしだけここに居てくれる。
明日になったら、きっと私も元気になると思うから。」
暗闇の中で、しっかりと美千子の肩を抱きながら
ゆっくりと何度も、頷づくことしかできないレイコでした。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
信じられない出来事(2)美千子の涙

綾乃ちゃんが突然亡くなった原因については、最後まで解明できません。
うつぶせ寝の状態で発見されたということが、当時問題視されはじめた
突然死の事故ではないかと言う見方も出てきました。
しかしまだ、この時代の日本の小児医療の世界では、
乳幼児が突然亡くなると言う病気の存在自体が、認知されはじめたばかりです。
アメリカ留学から帰ってきた小児科医が、たまたま病院に居合わせていたことから、
この病気についての可能性が喚起されました。
その可能性についての検討がはじまったものの、
もう一つの壁が、原因究明のための障害になってしまいます。
この時代では、死因解明のためとはいえ、乳幼児を
解剖するということは皆無に近く、きわめて稀な例にすぎません。
「これ以上、綾乃に辛い思いはさせないで・・・」
その美千子のひとことで、すべてが終わってしまいます。
警察でも、綾乃ちゃんの口の周辺へまとわりついていた
柔らかい毛布と、シーツの存在が問題になりました。
しかし、生後間もない乳幼児とは異なり、すでにハイハイもできて
つかまり立ちまでもできた綾乃ちゃんが、無抵抗状態のままに、
窒息したとは考えにくいものがありました。
結局、突然死の可能性もあるという曖昧な表現を残したまま、
死亡原因を特に強調せずに、きわめて稀な例という注釈を付けながら、
不慮の事態が重なり合ったことによる、乳幼児の窒息事故と言う見解で、
病院側の意見が決着をしました。
捜査本部でも、保育園側による過失の可能性については
有る程度まで言及はしたものの、それが致命的な死亡原因として
断定できるまでには至りません。
後になってから原因究明のために、急きょ参加した小児科医の意見も取り入れて、
突然死の可能性を考慮して、刑事事件としては取り扱わずに、
園長先生の事情聴取も終了しました。
ほぼ3日間にわたった調書作成のために
園長先生が、すっかり疲れきってしまいます。
3日目の聴取が終わった直後、その足のまま園長先生が
美千子の自宅を訪ねました。
美千子は無言のまま園長先生を招き入れ、小さな祭壇の前まで案内をします。
あどけない笑顔を見せる綾乃ちゃんの肖像を見つめる園長先生は、
小さな声で、いつまでも語りかけています。
想いを届けきったその後に、美千子の前で居ずまいを正した園長先生が
畳へ届くまで、深々と頭を下げました。
そして、そのまま動きません。
美千子が園長先生の肩へ手を置きます。
いたわるように抱えて、ようやく立ち上がらせます。
そのまま無言で、玄関先まで園長先生を送って出てきます。
何度も頭を下げる園長先生を、美千子は深く頭を下げたまま見送りました。
レイコは何もできず、ただ横からずっと美千子を支えたままです。
美千子はあの日以来、レイコにも口をきいてくれません。
取り乱す様子でもなく、ひどく落ち込むこともなく、
日を追うごとに悄然となりながらも、それでも、傍目には
気丈に振るまい続けています。
綾乃ちゃんをおくるための、ひと通りの葬儀が終わると
美千子の自宅からは、あれほどいた人の気配が完全に消えてしまいました。
人の喧騒が去り、祭壇だけが残された部屋からは、
物音ひとつさえ、まったく聞こえなくなってしまいました。
上の3歳になるお兄ちゃんは、美千子があの日から、
実家へ泊めたままでした。
居間のソファに腰掛けた美千子が、
ぼんやりと、暮れかけていく窓の外を見上げています。
レイコはその様子を、廊下からそっと覗きこんだだけで、そのまま
静かに立ち去ろうとします。
「レイコ?」
ここへきて初めて美千子の声が、レイコを追いかけてきました。
「来て。」
美千子は今も喪服のままです。
着替えようともせず、通夜の時から今日の葬儀の終わりまで、
ひときわ細い体を、黒い喪服に包んだままです。
レイコが美千子の近くへ、静かに腰を下ろします。
何も言わずに、美千子がレイコの肩へもたれかかってきました。
レイコも、ためらいながら美千子の肩をだきます。
「ありがとうね、レイコ。」
顔をうずめたまま、小さな声でささやきます。
返す言葉が見つからず、レイコは肩にまわした指先へかすかに力をこめました。
秋の日暮れは早く、薄黄色い光が満ちてきた部屋の中へは
いつのまにか、夕闇も一緒になって舞い降りてきます。
美千子の白い横顔も、いつしか時間と共に暗い影の中へ沈んでいきます。
「暗いままで、いい。」
電気をつけようとするレイコの気配を察して、美千子が否定をします。
闇が深さを増す中で、時間だけが静かに流れていきます。
ふと肩先で揺れた頭越しに、そっと目がしらをぬぐう美千子の気配がありました。
何もできないでいるレイコは、再び指先に力をいれるだけです。
「こころに何だか、ぽっかりと穴があいちゃった・・・
ありがとうね、レイコ。
もうすこしだけここに居てくれる。
明日になったら、きっと私も元気になると思うから。」
暗闇の中で、しっかりと美千子の肩を抱きながら
ゆっくりと何度も、頷づくことしかできないレイコでした。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/