アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(5)
第一章(5)時絵ママ
そこに居たのは、紛れもなく
夕鶴の「つう」を熱演して、すべての観客を魅了したあの時のままの時絵でした。
一瞬、目を疑いましたが、それは、うす暗いブラックライトの照明のせいでした。
和服姿の時絵が、カウンターの向こう側で「いらっしゃい、お久し振り」と柔らかく懐かしい笑顔を見せてくれています。
■ブラックライト (black light) は、
わずかに眼で見える長波長の紫外線を放射するライトのことです。
ブラックライトの光自体は人間の目には、ほとんど見えませんが、
ブラックライトを当てた物体は、その中に含まれる蛍光体だけを発光をさせるために、
非破壊検査などに使われるほか、視覚効果の一種としても利用されています。
居酒屋やカラオケ店、アミューズメントの施設などで
青紫っぽい光が出ていて、 Tシャツや白いシャツ等が不気味に光ることがありますが
それこそが、ブラックライトによる視覚効果によるものです。
「茜ちゃん、
少し見ない間に、また綺麗になったわねぇ。
まだ皆さんは、お見えになりませんが、はい、どうぞ。
あら・・・たしか、石川さん?。
今でも一年中、半袖シャツスタイルのままで
お過ごしですか。」
「はい、どうぞ」と、おしぼりをすすめてくれた時絵ママが、ちらりと意味ありな雰囲気で
茜の顔をのぞいてから、私の方へ、もう一度視線を向けてくれました。
「いやだぁ、ママったら。
余計なことは言わないでねぇ。
そこでたまたま、行き会っただけですから、
ほんと。
わたしたち、本当に何でもないんだから・・・」
「あらそうなの・・・
本当に、何でもなかったの?
そうなの。
まったくいまだに悪戯な子猫だわねぇ、茜ちゃんは。
はい、じゃあこれ。
そのまま帰したら、お家で待っている可愛い奥さまに
石川さんが、寝首を刈られるかもしれません。
ちゃんと、しっかりと
落としてあげて下さいね、茜ちゃん。
はい、温かいほうの、
おしぼり。」
驚いて、茜が私の首筋を見つめました。
時絵がそう言った通りに、シャツの襟と首筋には、しっかりと茜のルージュがついていました。
両手で受け取ったおしぼりの温度を慎重に確かめた茜が、今度はおそるおそる首筋へ、
「ごめん」を連発しながら、丁寧におしぼりを押しつけました。
再びシャネルのNo.5が、私の首筋周辺で、甲斐がしく騒ぎ始めました。
「時絵ママさんは、いつから此処へ?」
「石川さん。女に、
過ぎ去った過去のことなんか聴いちゃいけないわ。
それとも、そういうのがご趣味かしら?
何で酒場で働いているのかなんて、
水商売に身を染めている女に
そんな野暮な事は聞かない方が、身のためです。
10年もあれば女は変わるわよ。
10代や20代のときは、他愛のない夢の世界に暮らせても、
30歳ともなれば、女も現実世界で生きるようになる。
そんなもんです。」
「そんなもんですか・・・」
「そんなものです。
はい、茜ちゃん、ビールの用意はできました。
仕出し物の用意ができたようなので、
ちょっと出かけてまいります。
少しの時間で戻りますが、あとはお願いね。
でもね・・・
いいこと、茜ちゃん。
もうそれ以上、石川さんにからんんで
迷惑をかけたりしたら駄目ですよ。
さかりのついた小猫じゃあるまいし。」
じゃあお願いします、といいながら時絵ママが、裏口から消えてしまいました。
注いでもらったお返しにとビール瓶を持ちあげると、茜がコップに手を置いて、ふさいでしまいました。
「お酒は、やめました。
時絵ママと同じように、その訳は聞かないで。
でも・・・それじゃあ、あんたが寂しくなるから、
少しだけ注いで置いて。
あとで、舐めるから。」
「なるほど、
呑むのを辞めると、
子猫は、舐めるようになるのか。」
「意地悪・・・」
その後、もと団員たちがそれぞれに、思い思いの時間で集まり始めました。
座長が現れたのは、宴もたけなわとなりはじめた頃でした。
一人ひとりが好き勝手なことをわめき始めた頃のことで、時刻は、11時をすこし回っていました。
時絵ママと座長の間で、暗黙の合図が交わされたような気配もしましたが、
誰も特にそのことには触れず、ふたたび喧騒が爆発をしました。
集まったことへの趣旨の説明などはありません。
決意などの表明もなければ、次にこうしょうという提案などもこの場からは一切始まりません。
集まれば彼らは、勝手に次の目標へ向かって歩き始めます。
生まれた時から、そういう雰囲気を大切にしてきた「集団」でした。
「動きさえすれば、おのずと道は、産まれてくる」・・・それが結成された時からの劇団員たちのスタンスでした。
「もう、出ようよ。」
カウンターの中で、長い時間を、時絵ママと立ち話しをしていた茜が戻ってきました。
戻ってくるなり、私の耳元で小さく囁きます。
時絵ママが、カウンターの中から片目をつぶって見せて、「さよなら」と、声は出さずに右手を小さく振りました。
座長に片手をあげて合図をし、店を出たのは、カウントダウンが始まるすぐ直前でした。
一歩外へ出た瞬間に、凍りついてしまいました。
三方を山に囲まれた盆地にあたる、桐生独特の深夜の冷え込みです。
凍てついていた空気は、一瞬にして二人を固まらせました。
寒さに首をすくめた茜が、あわてて、私の胸の中へ飛び込んできました。
揺れている前髪の下からは、クリクリとした両眼が悪戯っぽくほほ笑みながら私を見上げてきました。
「小猫は、迷惑?。」
「いや、いいさ。
想定外の、新年になりそうだけど・・・
とりあえず、
新年、おめでとう。」
「うん、よ・ろ・し・く・ね。」
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