落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「レイコの青春」(29) 信じられない出来事(3)園長先生のノート

2012-08-05 09:32:50 | 現代小説
(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(29)
信じられない出来事(3)園長先生のノート




 
 もともと胸に持病を持っていた園長先生が、再び入院をしました。
今回は県都の前橋市に有る有名な心臓専門の病院です。
お見舞いにやってきたレイコの顔を見るなり、園長先生が
細い目をさらに細めて喜んでいます。




 「美千子さんは、あれからいかがお過ごしでしょうか。
 それから、あなたのピアノの練習も見てやれず、
 私は皆さんに、申しわけないほど気苦労ばかりを掛けつづけています。」


 差し出された園長先生の細くなった指先を、レイコが両手で
温めるようにして包む込みます。



 「お勉強のほうは、順調にすすんでいますか?
 無理をしてはいけません。
 あなたは昼間を働いて、そのうえなでしこで
 夜間保育までしているのですから、あせらないでください。
 若いとはいえ、無理は禁物です、
 後で、かならずたたりますから。」



 「私のことよりも、
 園長先生こそ、ご自身を大切にしてください。
 お見舞いに来たというのに、私の方に心配ばかりされています。
 それではまるで私のほうが、病人のようです。」



 「あらまぁ、私としたことが・・・
 それでどうかしら、保育園の皆さんは?
 それぞれお変わりもなく、
 皆さん元気に、すごしていらっしゃるかしら。」



 「園長先生。
 お身体にさわります。
 ご自分のことだけを考えてください。
 後のことは、わたしたちに任せて、
 ここでは、ゆっくりと、静養に専念をしてください。」


 「そうですねぇ、
 そうなればいいのですが、ねぇ・・・」




 園長先生のまっすぐな目が、しみじみとしてレイコの顔をみつめています。
両手で温められている指先へ、さらに添えるような形でもう片方の手が伸びてきました。
やさしくレイコの指に触れてから、かたわらのテーブルの引き出しを指さします。



 「そこの引き出しに入れてある、ノートを、後で幸子に届けてください。
 私だけの、秘密と言える保育園での記録です。
 そういえば、あなたもこれからは、保育者を目指す一人です。
 何かの参考になれば幸いです、開けて見て。」


 
 言われた通りに引き出しを開けると
何冊ものノートが、綺麗に積まれて置かれています。



 「私自身の、内申書のようなものです。
 子供たちの日ごろの様子を気付いたままに、記録に書きとめました。
 ささいなことばかりを、沢山書きとめました。
 特別にこれと言った、意味のあるものはありません。
 この子は今日は、少し熱が有るのかしら、とか、
 あの子は少し食欲がないみたいだ、とか、
 眠りが浅いようだけど、などと、
 その時その時の、子供たちから感じたことを
 感じたままに、私が書きしるしました。
 目に見たものや、感じたことは、その場で書きとめておかないと
 時間が過ぎてしまうと、大切なことまで忘れてしまうことが、
 よくあります。」



 ふうっと、長めの息を吐いた園長先生が、
病室の天井へ目を移してから、ひと呼吸、ふた呼吸、
胸を使って、大きな呼吸を繰り返します。
心配して覗きこんだレイコの顔を、園長先生の優しい眼差しが見つめ返します。




 「大丈夫。癖みたいなもので、何でもありません。
 少し、自分の気持ちを落ちつけました。
 そのノートの最後に、亡くなってしまった綾乃ちゃんの様子が、
 時間の経過と共に、わたしなりに精いっぱいに、
 できるかぎり正確に、客観的に書き留めた部分が有ります。
 でも・・・やはりどんな風に考えても、私は、保育者としては失格です。
 もっと早く、綾乃ちゃんのうつぶせ寝に気が付いていれば
 助かった命かもしれません。
 実際に、一度目の巡回の時に、私は綾乃ちゃんの
 うつぶせ寝の状態を目撃していたと思います。
 突然、乳幼児が亡くなる病気の原因として、うつぶせ寝があるということを、
 あの時の私は、まったく理解をしていませんでした。
 それ以上に、疲れていましたというのは、ただの言い訳ですが、
 あの夜に限っては、私の注意力や、仕事への執着心も不足していたようです。
 気の緩みというものは、おうおうにして事故や怪我のもとになります。
 私自身に、気の緩みがあったのかもしれません・・・・
 そのことも、ありのままにノートに書きとめておきました。
 レイコさん、それをあなたに預けます。
 幸子も、まだまだ事後の対応で手いっぱいでしょうし、
 美千子さんも痛手から立ち直るまでには、まだまだ時間もかかると思います。
 今の私にできることといえば、こうして、
 事実をありのままに書き残すことしか、もうできません。
 ごめんなさい、
 少し疲れました。
 眠ってしまってもいいかしら?」




 ゆっくりと閉じられた園長先生の目じりには、
すこし、光るものが見えた様な気が、レイコにはしました。
静かな寝息をたたて、眠りに落ちていった園長先生の胸元へ、毛布を整えながら
レイコが指先で、それを黙ってぬぐいます。



 冬が近づいた窓の外では、
今年最初の赤城山からの、激しい吹き下ろしの風が吹き始めました。
街路樹が横になびいて、電線からは「もがりの笛」が聞こえてきます。
刈り入れが済んで、切り株だけとなった水田から
乾いた土が黄色い砂塵となって、風と一緒に風下に向かって流れていきます。
郊外に建てられたこの病院と、遠目に見える市街地との間には、
空っ風が次々と、黄色い土煙のカーテンを巻きあげていきます・・・・






 病室では、規則正しい園長先生の寝息が続いています。




 レイコの手のひらに乗せられた園長先生のノートから
ひらりと、何かが床へ舞い落ちました。
栞(しおり)のようにも見えましたが、よく見ると
それは、細く切リ抜かれた園児の写真でした。
驚いたレイコが、あわててノートを開きます。
園児一人ひとりの写真が、あちこちのページから出現をしました。
しおり替わりに、園長先生がつくったもののようです。



 やがて、にこやかに笑う綾乃ちゃんの写真が見つかりました。
最初のページには、綾乃ちゃんの初登園日の様子が書かれていました。
「お母さんに大切そうに抱かれて、生後3週目で初登園。
美千子さんに似ていて、色白の美人さん!」
と、走り書きがあります。



 良く泣く子で、とても元気が良いと、その隣に追書きがありました。
次の日にも、「岸気な泣き声が、私を呼んでいる。」とあります。
「よく泣くし、よくミルクを飲みます。その割には小さい方かしら」と、
クレッションマークもついていました。
日付けを追いながらページをめくっていくと・・・・
最後近くの部分から、『私が一生後悔をしなければならない日』、と
余白に、おおきく書かれたページが出てきました。



 そこにはびっしりと、その当日の綾乃ちゃんの様子が、
克明に記録されていました。



 二度目のうつぶせ寝が確認された時間からはじまっているそのメモ書きは、
以下、詳細にわたって事実経過だけが、克明に書きこまれていました。



 呼吸が止まっていることを察知した時間。
通報してから救急車が来るまでの時間と、それまでの綾乃ちゃんの様子。
救急隊員とのやりとりの様子。その会話の中身のひとつひとつ。
病院までの(長いと感じた)その所要時間・・・・
看護婦さんとのやりとり。医師との会話。美千子さんへの連絡。
そうしたひとつ一つの出来事が、実に克明に、すべてが書き残されています。



 「これって・・・」




 美千子が夕闇の迫った病室で、静かな寝息を立てている、
園長先生の横顔をあらためて見つめています。





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