つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(32)俊足の舞妓

着物姿にもかかわらず褄を片手に、軽快にステップを踏んでいった市侑が、
後方の歩道上の騒ぎに気がつく。
『どないしたんやろう?』思わず、4車線のど真ん中で立ち止まる。
振り返る市侑の目にあたふたと駆けだしてくる女将の恵子と、つられて駆けだす
勇作と椎名の姿が飛び込んでくる。
(あらまぁぁ・・・お母さんも無茶をいたしますが、つられて飛び出してくる
お連れのお2人も、まったくもって無茶どすなぁ・・・)
にっこりとほほ笑んだ市侑が、褄を持つ手を緩める。
ふわりと舞い降りた着物の裾が、四条通りの真ん中で小さく丸い円を描く。
そのまま、まるで飛び立つ前の白鳥のように両手をひろげる。
舞妓の仁王立ちが始まった。
3人が車道を無事に通過していくための、時間を稼ぐためだ。
美しい衣装を身に着けていなければ、まるで渋滞を整理している交通巡査か、
どこかの若い警備員が取っている、交通整理のポーズに見える。
唖然とハンドルを握り締めている最前列の運転手と、市侑の目が会う。
その瞬間。市侑がこぼれるような、最高級の笑顔を運転手に見せる。
(すんまへんなぁ、連れが突然飛び出してきました・・・忙しいのにごめんやす)
と優しく笑う市侑の目に、(いいよ、別に。それほど急かさなくても)と
諦めきった運転手の笑顔が返って来る。
3人が車道を渡り切ったのを確かめたあと、市侑がゆっくりと褄を持ち上げる。
左手で褄を揚げるのは、芸は売っても身体は売らないと言う、祇園で生きる女の心意気だ。
急ぐかと思いきや、だらりの帯を揺らしながら、ゆっくりと足を運び始める。
あくまでも静かに、優雅に、ぽっくりの足を運んでいく。
すべての人たちが見守る中、10秒ほどかけて残りの車線を渡り終えた市侑が、
静かに、車道に停まっている車の列を振り返る。
(すんまへんなぁ。たいへん、お騒がせをいたしました)と優雅に頭を下げる。
それを合図に、停止していた車たちがするりと一斉に動き出す。
四条通りにあらわれた幻の横断歩道が、まるで何事もなかったように
動き始めた車の流れの中へ消えていく。
ふたたびいつもの、混み合う四条通りの車の流れが戻ってきた。
「驚いたなぁ・・・俺たちはたったいま凄いものを、自分の全身で経験した。
女将が言っていた通り、治外法権の話は嘘じゃなかった。
車が停まり横断歩道でもない場所で、俺たちは四条通りを無事に横断した・・・」
「ウチ等まで横断するのは想定外どしたが、これもまた貴重な体験どす。
けど、もう、これっきりにいたしましょ。
30数年ぶりに道路を横切りましたが、さすがに、冷や汗などをかきました」
「えっ、君も昔、こんな風にして道路を横切ったことが有るのかい!。
驚いたなぁ。治外法権の伝統は、ずいぶん昔から伝わっているんだねぇ。
それにしても驚いた伝統だ、横断歩道でもないところでの横断は・・・」
「祇園の舞妓だけに許された特権どす。
飛び出す舞妓のために、何度も急ブレーキを踏むタクシーの運転手はんには
まったくもってお気の毒どすが、一般のドライバーさんは幸運です。
舞妓の突然の横断は、年に1度か2度、有るか無いかの事どす。
宝くじに当たるような確率どすなぁ。
渡る舞妓の側も、命をかけたデモンストレーションですからなぁ」
「たしかに滅多にない、貴重で珍しい体験だ。
出くわした人にしてみれば、のちのちのいい思い出になる。
祇園とはいえ本物の舞妓と出くわすのは、そうそう有ることじゃないからな。
停まった車から、クラクションと怒声が爆発して大騒ぎになると思ったが、
みんな暮れの珍事として、心静かに受け止めたようだ。
それどころか、優雅に渡る舞妓を見守る空気さえ有ったから、
不思議だな」
「可愛い舞妓が道路を横切るから、ギリギリで許されるんどす。
ウチみたいな姥桜が、強行突破で道路を横切ったら、それこそ苦情の嵐どす。
クラクションが鳴らされて、早く渡れと、道路上で怒号が爆発をします」
「しかしあの子。足取りが実に軽快だったな。
まるで若いカモシカが飛んでいくような、颯爽とした足取りだった」
「その通りどす。
あの子はおととしの滋賀県の中学陸上で、チャンピオンになった子どすからなぁ。
100メートルを12秒02で走って、優勝した子どす。
中学で12秒を切ったら、進学して陸上選手になることを夢に見たそうどすが、
百分の2秒足らず、陸上競技を諦めて、舞妓になることを決意した子どす」
「えっ、100メートルを12秒台で走った女の子が、舞妓になった?
どうなってんだよ、祇園と言うこの町は・・・」
(33)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(32)俊足の舞妓

着物姿にもかかわらず褄を片手に、軽快にステップを踏んでいった市侑が、
後方の歩道上の騒ぎに気がつく。
『どないしたんやろう?』思わず、4車線のど真ん中で立ち止まる。
振り返る市侑の目にあたふたと駆けだしてくる女将の恵子と、つられて駆けだす
勇作と椎名の姿が飛び込んでくる。
(あらまぁぁ・・・お母さんも無茶をいたしますが、つられて飛び出してくる
お連れのお2人も、まったくもって無茶どすなぁ・・・)
にっこりとほほ笑んだ市侑が、褄を持つ手を緩める。
ふわりと舞い降りた着物の裾が、四条通りの真ん中で小さく丸い円を描く。
そのまま、まるで飛び立つ前の白鳥のように両手をひろげる。
舞妓の仁王立ちが始まった。
3人が車道を無事に通過していくための、時間を稼ぐためだ。
美しい衣装を身に着けていなければ、まるで渋滞を整理している交通巡査か、
どこかの若い警備員が取っている、交通整理のポーズに見える。
唖然とハンドルを握り締めている最前列の運転手と、市侑の目が会う。
その瞬間。市侑がこぼれるような、最高級の笑顔を運転手に見せる。
(すんまへんなぁ、連れが突然飛び出してきました・・・忙しいのにごめんやす)
と優しく笑う市侑の目に、(いいよ、別に。それほど急かさなくても)と
諦めきった運転手の笑顔が返って来る。
3人が車道を渡り切ったのを確かめたあと、市侑がゆっくりと褄を持ち上げる。
左手で褄を揚げるのは、芸は売っても身体は売らないと言う、祇園で生きる女の心意気だ。
急ぐかと思いきや、だらりの帯を揺らしながら、ゆっくりと足を運び始める。
あくまでも静かに、優雅に、ぽっくりの足を運んでいく。
すべての人たちが見守る中、10秒ほどかけて残りの車線を渡り終えた市侑が、
静かに、車道に停まっている車の列を振り返る。
(すんまへんなぁ。たいへん、お騒がせをいたしました)と優雅に頭を下げる。
それを合図に、停止していた車たちがするりと一斉に動き出す。
四条通りにあらわれた幻の横断歩道が、まるで何事もなかったように
動き始めた車の流れの中へ消えていく。
ふたたびいつもの、混み合う四条通りの車の流れが戻ってきた。
「驚いたなぁ・・・俺たちはたったいま凄いものを、自分の全身で経験した。
女将が言っていた通り、治外法権の話は嘘じゃなかった。
車が停まり横断歩道でもない場所で、俺たちは四条通りを無事に横断した・・・」
「ウチ等まで横断するのは想定外どしたが、これもまた貴重な体験どす。
けど、もう、これっきりにいたしましょ。
30数年ぶりに道路を横切りましたが、さすがに、冷や汗などをかきました」
「えっ、君も昔、こんな風にして道路を横切ったことが有るのかい!。
驚いたなぁ。治外法権の伝統は、ずいぶん昔から伝わっているんだねぇ。
それにしても驚いた伝統だ、横断歩道でもないところでの横断は・・・」
「祇園の舞妓だけに許された特権どす。
飛び出す舞妓のために、何度も急ブレーキを踏むタクシーの運転手はんには
まったくもってお気の毒どすが、一般のドライバーさんは幸運です。
舞妓の突然の横断は、年に1度か2度、有るか無いかの事どす。
宝くじに当たるような確率どすなぁ。
渡る舞妓の側も、命をかけたデモンストレーションですからなぁ」
「たしかに滅多にない、貴重で珍しい体験だ。
出くわした人にしてみれば、のちのちのいい思い出になる。
祇園とはいえ本物の舞妓と出くわすのは、そうそう有ることじゃないからな。
停まった車から、クラクションと怒声が爆発して大騒ぎになると思ったが、
みんな暮れの珍事として、心静かに受け止めたようだ。
それどころか、優雅に渡る舞妓を見守る空気さえ有ったから、
不思議だな」
「可愛い舞妓が道路を横切るから、ギリギリで許されるんどす。
ウチみたいな姥桜が、強行突破で道路を横切ったら、それこそ苦情の嵐どす。
クラクションが鳴らされて、早く渡れと、道路上で怒号が爆発をします」
「しかしあの子。足取りが実に軽快だったな。
まるで若いカモシカが飛んでいくような、颯爽とした足取りだった」
「その通りどす。
あの子はおととしの滋賀県の中学陸上で、チャンピオンになった子どすからなぁ。
100メートルを12秒02で走って、優勝した子どす。
中学で12秒を切ったら、進学して陸上選手になることを夢に見たそうどすが、
百分の2秒足らず、陸上競技を諦めて、舞妓になることを決意した子どす」
「えっ、100メートルを12秒台で走った女の子が、舞妓になった?
どうなってんだよ、祇園と言うこの町は・・・」
(33)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら