つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(46) 売れない舞妓
『長い話になります』それでもお聞きになりますかと、女将の恵子が笑う。
『南朝へ3人を乗せて出発すると運転で忙しくなる。だが、すずが到着するまでは、
何もする事が無い。俺は暇を持てましている。
いくらでも長い話に付き合う。話してくれないか、京都が都になったもうひとつの
理由が知りたい』真顔に戻った勇作が、フフフと笑う恵子に媚を売る。
「海の利と言う言葉が有りますなぁ。
今から7000年前の縄文時代の前半ごろ、大阪平野の一部である河内平野は、
そのほとんどが海に沈んでいました。
上町台地が半島のように突き出た、河内湾どした。
北から淀川が、南からは大和川が大量の土砂を運んできたため、だんだんと土砂がつもり、
長い年月をかけて、河内湾が埋め立てられていきました。
1800~1600年前の弥生時代の後半から古墳時代の前半に、
湾は大きな湖のようになり、徐々に現在の河内平野が、できはじめたそうどす。
奈良が最初の都となった、4世紀の半ば頃。
船で瀬戸内海から河内湖へ入り、半島の上町台地を回り込み、
大和川をさかのぼれば生駒山や、金剛山の麓まで行くことができました。
中国大陸から生駒山麓の柏原市まで、直接舟で行けたのぞす。
柏原で小舟に乗り換え、生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、
もうすぐそこが奈良盆地どす。
奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていどおす。
湿地湖を利用すれば、奈良盆地のぞこにかて舟で簡単に行くことができたんどす。
奈良盆地全体が大坂湾の荒波を避ける、まったとしたり自然の内港です。
舟を利用すれば奈良盆地は便利に、ユーラシア大陸と交易が出来たんどす」
「大和地方を平定した初代の天皇、神武天皇の御陵が奈良県橿原市にある。
なるほど。陸路を使えば、のちの都になる京都へも、簡単に行くことができる。
交易の都としても栄え、陸路を使えば大和のあちこちへいける地の利を持ちながら、
なんで奈良の都は衰退したんだい?」
「奈良盆地が日本の最初の都になったのは、地形から見て合理的どおす。
けど、この奈良盆地を抱える大和川の流域が、いかにも小さ過ぎたんどす。
川の流域がちっこいということは、資源があらへんことを意味します。
川の流域が支配している資源は「水」と「森林」のふたつどす。
水はすべての生命の源で、森林は、エネルギーの源になるんどすなぁ。
大和川の流域にある奈良盆地は、この「水」と「森林」に限度があったんどす」
「お・・・予想外の展開だ。だいぶ、科学的な話になって来た。
へぇぇ、君。ほんとに歴史を語る才覚が有ったんだねぇ。驚いたなぁ」
「茶化さんとおくれやす。精一杯にハラハラドキドキなんどす。
30数年前に学んだ知識をホコリを被った頭の片隅から、引っ張りだしとんのぞす。
舞妓のかたわら、こっそりと読み漁った、昔の歴史書の知識どすから」
事実。15歳になった恵子は、舞妓をしながら夜ごと、歴史書を読み漁っていた。
眠くないと言えば嘘になるが、それでも毎晩欠かさず歴史書を読んだ。
いつかは歴史の先生になりたいという夢を、気持ちのどこかに残していたからだ。
「舞妓のかたわら、毎晩、歴史書を読み漁っていただって?。
正気の沙汰とは思えないね。
置屋の娘に生まれれば、当然のことのように舞妓になり、芸妓の経験を積んでから
やがて置屋の女将におさまるという道が決まっていたはずだ。
君はそんな自分の運命に反発をしていたのかな。歴史書を読むことで」
「そうやおへん。舞妓をすることに危機感を持っていたんどす」
「危機感が有ったって?。舞妓と言えば祇園の宝だろう。
横断歩道でもない場所でも車を停めて、道路を横切れるほどの特別な存在だ。
危機感なんかないだろう。恵まれた過ぎた国宝のような存在だもの」
「ウチが舞妓になる前の1975年は、舞妓の数が20名までに落ち込みどおす。
その後、少しずつ上昇してきてウチの同期は、祇園甲部だけかて21人。
5花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町)全部合わせると65人の大所帯どす。
まだ売れてもいあらへんウチは、舞妓の仕事で駄目なら歴史の先生にと、
本気で転職を考えていたんどすなぁ」
「なんだ。売れていなかったのかい、最初の頃の君は?」
「ウチより舞の上手な子なんて、数限りなく、なんぼかて居りおす。
器量かて、ウチをしのぐ子は、これまたなんぼも居るんどす。
ウチは舞も器量も中の下。取り柄があると言えば、置屋の娘と言う特権だけ。
けど置屋のむすめだけでは、指名の数にも限度があんのどす。
祇園のお客さんは置屋の娘ではなう、舞の上手な子と、器量良しを最初に指名します。
これといった取り柄も特徴もなかった女の子なんどすなぁ。
舞妓としてデビューしたばかりの、ウチは・・・」
(47)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(46) 売れない舞妓
『長い話になります』それでもお聞きになりますかと、女将の恵子が笑う。
『南朝へ3人を乗せて出発すると運転で忙しくなる。だが、すずが到着するまでは、
何もする事が無い。俺は暇を持てましている。
いくらでも長い話に付き合う。話してくれないか、京都が都になったもうひとつの
理由が知りたい』真顔に戻った勇作が、フフフと笑う恵子に媚を売る。
「海の利と言う言葉が有りますなぁ。
今から7000年前の縄文時代の前半ごろ、大阪平野の一部である河内平野は、
そのほとんどが海に沈んでいました。
上町台地が半島のように突き出た、河内湾どした。
北から淀川が、南からは大和川が大量の土砂を運んできたため、だんだんと土砂がつもり、
長い年月をかけて、河内湾が埋め立てられていきました。
1800~1600年前の弥生時代の後半から古墳時代の前半に、
湾は大きな湖のようになり、徐々に現在の河内平野が、できはじめたそうどす。
奈良が最初の都となった、4世紀の半ば頃。
船で瀬戸内海から河内湖へ入り、半島の上町台地を回り込み、
大和川をさかのぼれば生駒山や、金剛山の麓まで行くことができました。
中国大陸から生駒山麓の柏原市まで、直接舟で行けたのぞす。
柏原で小舟に乗り換え、生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、
もうすぐそこが奈良盆地どす。
奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていどおす。
湿地湖を利用すれば、奈良盆地のぞこにかて舟で簡単に行くことができたんどす。
奈良盆地全体が大坂湾の荒波を避ける、まったとしたり自然の内港です。
舟を利用すれば奈良盆地は便利に、ユーラシア大陸と交易が出来たんどす」
「大和地方を平定した初代の天皇、神武天皇の御陵が奈良県橿原市にある。
なるほど。陸路を使えば、のちの都になる京都へも、簡単に行くことができる。
交易の都としても栄え、陸路を使えば大和のあちこちへいける地の利を持ちながら、
なんで奈良の都は衰退したんだい?」
「奈良盆地が日本の最初の都になったのは、地形から見て合理的どおす。
けど、この奈良盆地を抱える大和川の流域が、いかにも小さ過ぎたんどす。
川の流域がちっこいということは、資源があらへんことを意味します。
川の流域が支配している資源は「水」と「森林」のふたつどす。
水はすべての生命の源で、森林は、エネルギーの源になるんどすなぁ。
大和川の流域にある奈良盆地は、この「水」と「森林」に限度があったんどす」
「お・・・予想外の展開だ。だいぶ、科学的な話になって来た。
へぇぇ、君。ほんとに歴史を語る才覚が有ったんだねぇ。驚いたなぁ」
「茶化さんとおくれやす。精一杯にハラハラドキドキなんどす。
30数年前に学んだ知識をホコリを被った頭の片隅から、引っ張りだしとんのぞす。
舞妓のかたわら、こっそりと読み漁った、昔の歴史書の知識どすから」
事実。15歳になった恵子は、舞妓をしながら夜ごと、歴史書を読み漁っていた。
眠くないと言えば嘘になるが、それでも毎晩欠かさず歴史書を読んだ。
いつかは歴史の先生になりたいという夢を、気持ちのどこかに残していたからだ。
「舞妓のかたわら、毎晩、歴史書を読み漁っていただって?。
正気の沙汰とは思えないね。
置屋の娘に生まれれば、当然のことのように舞妓になり、芸妓の経験を積んでから
やがて置屋の女将におさまるという道が決まっていたはずだ。
君はそんな自分の運命に反発をしていたのかな。歴史書を読むことで」
「そうやおへん。舞妓をすることに危機感を持っていたんどす」
「危機感が有ったって?。舞妓と言えば祇園の宝だろう。
横断歩道でもない場所でも車を停めて、道路を横切れるほどの特別な存在だ。
危機感なんかないだろう。恵まれた過ぎた国宝のような存在だもの」
「ウチが舞妓になる前の1975年は、舞妓の数が20名までに落ち込みどおす。
その後、少しずつ上昇してきてウチの同期は、祇園甲部だけかて21人。
5花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町)全部合わせると65人の大所帯どす。
まだ売れてもいあらへんウチは、舞妓の仕事で駄目なら歴史の先生にと、
本気で転職を考えていたんどすなぁ」
「なんだ。売れていなかったのかい、最初の頃の君は?」
「ウチより舞の上手な子なんて、数限りなく、なんぼかて居りおす。
器量かて、ウチをしのぐ子は、これまたなんぼも居るんどす。
ウチは舞も器量も中の下。取り柄があると言えば、置屋の娘と言う特権だけ。
けど置屋のむすめだけでは、指名の数にも限度があんのどす。
祇園のお客さんは置屋の娘ではなう、舞の上手な子と、器量良しを最初に指名します。
これといった取り柄も特徴もなかった女の子なんどすなぁ。
舞妓としてデビューしたばかりの、ウチは・・・」
(47)へつづく
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