つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(34)風雲児と伏魔殿

白川に架かる橋、巽橋(たつみばし)が見えてくる。
巽橋の目の前で、石畳の新橋通りと白川南通りが交差する。
橋の向かい側には、芸子や舞妓たちと記念撮影するための絶好のスポット、
辰巳大明神が鎮座している。
もともとは、辰巳の方角(南東)を守る神社だった。
いつのまにか、芸妓や舞妓をはじめとする祇園の芸能関係者から、
芸事の上達を祈る「祇園のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれるようになった。
ここの祭神、祀られているのは狸だ。
巽橋に住むイタズラな狸が、橋を渡る人を化かして遊んでいたのを見かねて、
近くに祠を建て、狸を祀るようになったという言い伝えが残されている。
巽橋を渡ると、町屋が同じ背丈に揃った新橋地区が始まる。
此処には、幕末の風雲児、高杉晋作にまつわるエピソードが残っている。
高杉晋作と言えば、長州を破滅の淵から救った幕末の風雲児として有名だ。
高杉が活躍した舞台といえば、江戸や長州の藩内だ。
しかし文久年間の一時期だけ、京都に逗留していた。
その頃のエピソードとして、文久3年3月11日に行われた賀茂行幸の際、
行列に供奉していた将軍家茂公に対し、『いよ、征夷大将軍!』と声を掛けた事は
あまりにも有名で、多くの人に知られている。
後世の創作とも言われているが、高杉晋作ならやりかねないと思うのは
おおくの人が納得するところだろう。
高杉が京都で贔屓にしていたのが、井筒屋の芸妓、小梨花だ。
『何をくよくよ 川端柳 水の流れに身を任す』と歌いながら、白川のほとりで
気ままに放蕩生活を送っていた。
新橋地区に残る立て札によれば、井筒屋は巽橋の北側にあったとされている。
高杉は人目をはばかることなく、小梨花を連れて祇園の街のあちこちへ
ぶらりと足跡を残しながら、いまでいう、デートを繰り返していたことになる。
恵子が『伏魔殿』と形容した池田屋は、その白川を背にして建っている。
お茶屋の建物は、1階に比べ、2階部分のほうが高くなっている。
2階で客をもてなす際、くつろげるようにと上階の軒を高く設計してある。
三つ指をついた女将が『ようこそ、お越しやす』と笑顔で出迎える。
『おい・・・あの女将は昔、巽橋に住んでいたタヌキの化身じゃないだろうな』
靴を脱ぎながら勇作が、所長の椎名にそっとささやく。
(伏魔殿と聞いています。でも、どう見てもよだれが出そうな美女ですねぇ。
タヌキではなく、切れ長の目からすると、鞍馬あたりに住んでいる
キツネかもしれません・・・)
(鞍馬に住んでいるのはキツネではなく、牛若丸に剣術を教えた天狗だろう?)
(先輩。京都には、たくさんのキツネ伝説が残っています。
相国寺に伝わる宗旦狐(そうたんぎつね)は、千家茶道の基礎を固めた人物、
千宗旦に化けて、しばしば茶席に現れました。
平安時代の高名な陰陽師、安倍晴明は、 稲荷の狐が化身した女性(葛の葉)と
人間の男性との間に生まれた子供です。
ひとりやふたり、祇園の女将に変身していても、何の不思議もありません)
(というと置屋の女将、恵子さんも、どこかのキツネの化身かな?)
多恵と挨拶を交わしていた恵子が、2階へ上がる階段の下で
所長の椎名と勇作の背中へ追いついてきた。
「あら、あたしの悪口かい。ちょっと目を離すと、すぐこれだ。
あたしまで、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の仲間にするんじゃないよ。
そんなことよりも、椎名所長はん。
気をつけなあかんえ。
どうやらあんたは此処の女将の、多恵のメガネに叶ったようや」
「メガネに叶ったって?。
なんだ。椎名のような小太りで、少し頭髪の薄い男が好みなのか、
ここの女将、多恵さんと言うキツネは・・・」
もう少し詳しく問い詰めようと勇作が構えた瞬間、さらりと横をすり抜けた
恵子が、トントンと階段を軽快に上がっていく。
(35)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(34)風雲児と伏魔殿

白川に架かる橋、巽橋(たつみばし)が見えてくる。
巽橋の目の前で、石畳の新橋通りと白川南通りが交差する。
橋の向かい側には、芸子や舞妓たちと記念撮影するための絶好のスポット、
辰巳大明神が鎮座している。
もともとは、辰巳の方角(南東)を守る神社だった。
いつのまにか、芸妓や舞妓をはじめとする祇園の芸能関係者から、
芸事の上達を祈る「祇園のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれるようになった。
ここの祭神、祀られているのは狸だ。
巽橋に住むイタズラな狸が、橋を渡る人を化かして遊んでいたのを見かねて、
近くに祠を建て、狸を祀るようになったという言い伝えが残されている。
巽橋を渡ると、町屋が同じ背丈に揃った新橋地区が始まる。
此処には、幕末の風雲児、高杉晋作にまつわるエピソードが残っている。
高杉晋作と言えば、長州を破滅の淵から救った幕末の風雲児として有名だ。
高杉が活躍した舞台といえば、江戸や長州の藩内だ。
しかし文久年間の一時期だけ、京都に逗留していた。
その頃のエピソードとして、文久3年3月11日に行われた賀茂行幸の際、
行列に供奉していた将軍家茂公に対し、『いよ、征夷大将軍!』と声を掛けた事は
あまりにも有名で、多くの人に知られている。
後世の創作とも言われているが、高杉晋作ならやりかねないと思うのは
おおくの人が納得するところだろう。
高杉が京都で贔屓にしていたのが、井筒屋の芸妓、小梨花だ。
『何をくよくよ 川端柳 水の流れに身を任す』と歌いながら、白川のほとりで
気ままに放蕩生活を送っていた。
新橋地区に残る立て札によれば、井筒屋は巽橋の北側にあったとされている。
高杉は人目をはばかることなく、小梨花を連れて祇園の街のあちこちへ
ぶらりと足跡を残しながら、いまでいう、デートを繰り返していたことになる。
恵子が『伏魔殿』と形容した池田屋は、その白川を背にして建っている。
お茶屋の建物は、1階に比べ、2階部分のほうが高くなっている。
2階で客をもてなす際、くつろげるようにと上階の軒を高く設計してある。
三つ指をついた女将が『ようこそ、お越しやす』と笑顔で出迎える。
『おい・・・あの女将は昔、巽橋に住んでいたタヌキの化身じゃないだろうな』
靴を脱ぎながら勇作が、所長の椎名にそっとささやく。
(伏魔殿と聞いています。でも、どう見てもよだれが出そうな美女ですねぇ。
タヌキではなく、切れ長の目からすると、鞍馬あたりに住んでいる
キツネかもしれません・・・)
(鞍馬に住んでいるのはキツネではなく、牛若丸に剣術を教えた天狗だろう?)
(先輩。京都には、たくさんのキツネ伝説が残っています。
相国寺に伝わる宗旦狐(そうたんぎつね)は、千家茶道の基礎を固めた人物、
千宗旦に化けて、しばしば茶席に現れました。
平安時代の高名な陰陽師、安倍晴明は、 稲荷の狐が化身した女性(葛の葉)と
人間の男性との間に生まれた子供です。
ひとりやふたり、祇園の女将に変身していても、何の不思議もありません)
(というと置屋の女将、恵子さんも、どこかのキツネの化身かな?)
多恵と挨拶を交わしていた恵子が、2階へ上がる階段の下で
所長の椎名と勇作の背中へ追いついてきた。
「あら、あたしの悪口かい。ちょっと目を離すと、すぐこれだ。
あたしまで、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の仲間にするんじゃないよ。
そんなことよりも、椎名所長はん。
気をつけなあかんえ。
どうやらあんたは此処の女将の、多恵のメガネに叶ったようや」
「メガネに叶ったって?。
なんだ。椎名のような小太りで、少し頭髪の薄い男が好みなのか、
ここの女将、多恵さんと言うキツネは・・・」
もう少し詳しく問い詰めようと勇作が構えた瞬間、さらりと横をすり抜けた
恵子が、トントンと階段を軽快に上がっていく。
(35)へつづく
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