つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(40)帳場とアブラムシ

階下へ降りた恵子が、『少し待ってておくれやす』と帳場のほうへ消えていく。
女将の多恵に、帰りの挨拶をするためだ。
手持無沙汰の勇作が、ふらりとそのまま恵子の背中へ着いていく。
帳場はお茶屋の奥まった一角に有る。
6畳ほどの空間に、書類や伝票があちらこちらに散乱している。
掘り炬燵で伝票を整理していた多恵が、恵子の声に、メガネを外して振り返る。
「お疲れどす。連れが目を覚ましたさかい、ウチもそろそろ帰るおす。
なんや。あんたメガネなんかかけて、もう老眼かいな。
いまだに手書きの伝票で処理すんのは、あんたのとこくらいなもんやなぁ。
たいがいでパソコンを導入したら、どうや。
計算は正確やし、資料もそんなりパソコンの中にとって置けるでぇ。
携帯そやかて、いまはスマートフォンの時代や」
「おおきなお世話や。ウチはいまだにガラ携しか使えへん女や。
お茶屋の請求書は、昔から、総額だけのぞんぶり勘定と決まっとる。
こまごま明細を書く必要はあらへんさかい、パソコンなんぞいらん。
しな、そこで呑んでいるアブラムシも、もういらん邪魔な存在や。
恵子ちゃん。誰かもろてくれんかねぇ、そこにいる邪魔なアブラムシを」
「アホなこと言わんといてな。
2年前に、惚れた腫れたで大騒ぎして、どこぞの女から奪い取ったくせに。
今ごろになって、飽きたからとポイ捨てかいな。
市田はん(アブラムシの本名)。気いつけなあきまへんで。
多恵はとことん男はんに尽くす性分どすが、飽きると、いきなりどこぞで
つべたい薄情な面を出す女どすからなぁ」
「恵子ちゃんくらいや。
ワシの微妙な立場を分かってくれんのは。
お・・・そっちに隠れておる連れは、恵子ちゃんのあたらしい彼氏かいな?。
ワシと違って、ちょっと渋めのいい男やなぁ」
市田が、恵子の背中に隠れている勇作の姿に目を停める。
アブラムシと言っても、ゴキブリの事ではない。
祇園のアブラムシと言うのは、お茶屋の帳場に上がり込み、只酒を呑んでいる
輩の事を言う。勿論、アブラムシはお金を払わない。
女将とアブラムシは、祇園における究極の男女の関係と言っても過言ではない。
かなり懇意な関係でないと、この形式が成立しないからだ。
「多恵ちゃん。出来上がった請求書は、ウチへ回してな。
日野自動車の椎名所長も、ここにいてる勇作はんも、ウチがいまも乗っている
日野コンテッサーのエンジンで、たいへんお世話になった恩人や」
『そうか。そういえば、そんなことも有ったなぁ・・・』と多恵が、
山のように積まれた伝票に目を落とす。
『そういうことなら、少しばかり、請求額に手心を加えるか』多恵がペロリと、
手にした鉛筆をなめるたあと、
『まだ呑めそうどすなぁ、その顔は』と、恵子の陰に隠れている勇作の顔を、
じろりと見上げる。
「あんた。2人を、白川通りのスナック、らんまんへ道案内してあげてや。
ウチも伝票が終り次第、後から行くから。
あ、あんたは呑まんでええで。案内だけしたら帰ってくるんやで。
ウチは恵子に話があるさかい。
あんたは戻ってきて、ここで好きなだけ只酒を呑めばええでしゃろ」
『久しぶりや。たまには2人でとことん呑みましょ、昔のように』
と多恵が恵子に向かって、片目をつぶる。
しぶしぶ立ち上がった市田が、着物の前を掻き合わせて『それじゃ行きますか』と
乱れた頭髪をぼりぼりと掻く。
アブラムシと呼ばれる割に、身に着けている着物は高価だ。
だが長いあいだ着たきりのため、いたるところに不自然な皺が生まれている。
(欲の深いキツネに騙された挙句、会社でも潰したような雰囲気が有る。
本来なら、数十万はする高価な着物だろうが、ここまで着たきりでヨレヨレになると
さすがの価値も地に落ちてくる。
祇園は怖い世界だな。ひとつ間違えば、人生のすべてを根底から失う・・・。
たしかに池田屋の女将、多恵さんも、置屋市松の恵子さんも、
ともに美人で、男をふらりとさせるような色気を、充分なまでに持っている。
だが俺は、絶対こんな女どもなんかに騙されないぞ!)
アブラムシに道案内されながら、勇作が胸の中でこっそりつぶやく。
(41)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(40)帳場とアブラムシ

階下へ降りた恵子が、『少し待ってておくれやす』と帳場のほうへ消えていく。
女将の多恵に、帰りの挨拶をするためだ。
手持無沙汰の勇作が、ふらりとそのまま恵子の背中へ着いていく。
帳場はお茶屋の奥まった一角に有る。
6畳ほどの空間に、書類や伝票があちらこちらに散乱している。
掘り炬燵で伝票を整理していた多恵が、恵子の声に、メガネを外して振り返る。
「お疲れどす。連れが目を覚ましたさかい、ウチもそろそろ帰るおす。
なんや。あんたメガネなんかかけて、もう老眼かいな。
いまだに手書きの伝票で処理すんのは、あんたのとこくらいなもんやなぁ。
たいがいでパソコンを導入したら、どうや。
計算は正確やし、資料もそんなりパソコンの中にとって置けるでぇ。
携帯そやかて、いまはスマートフォンの時代や」
「おおきなお世話や。ウチはいまだにガラ携しか使えへん女や。
お茶屋の請求書は、昔から、総額だけのぞんぶり勘定と決まっとる。
こまごま明細を書く必要はあらへんさかい、パソコンなんぞいらん。
しな、そこで呑んでいるアブラムシも、もういらん邪魔な存在や。
恵子ちゃん。誰かもろてくれんかねぇ、そこにいる邪魔なアブラムシを」
「アホなこと言わんといてな。
2年前に、惚れた腫れたで大騒ぎして、どこぞの女から奪い取ったくせに。
今ごろになって、飽きたからとポイ捨てかいな。
市田はん(アブラムシの本名)。気いつけなあきまへんで。
多恵はとことん男はんに尽くす性分どすが、飽きると、いきなりどこぞで
つべたい薄情な面を出す女どすからなぁ」
「恵子ちゃんくらいや。
ワシの微妙な立場を分かってくれんのは。
お・・・そっちに隠れておる連れは、恵子ちゃんのあたらしい彼氏かいな?。
ワシと違って、ちょっと渋めのいい男やなぁ」
市田が、恵子の背中に隠れている勇作の姿に目を停める。
アブラムシと言っても、ゴキブリの事ではない。
祇園のアブラムシと言うのは、お茶屋の帳場に上がり込み、只酒を呑んでいる
輩の事を言う。勿論、アブラムシはお金を払わない。
女将とアブラムシは、祇園における究極の男女の関係と言っても過言ではない。
かなり懇意な関係でないと、この形式が成立しないからだ。
「多恵ちゃん。出来上がった請求書は、ウチへ回してな。
日野自動車の椎名所長も、ここにいてる勇作はんも、ウチがいまも乗っている
日野コンテッサーのエンジンで、たいへんお世話になった恩人や」
『そうか。そういえば、そんなことも有ったなぁ・・・』と多恵が、
山のように積まれた伝票に目を落とす。
『そういうことなら、少しばかり、請求額に手心を加えるか』多恵がペロリと、
手にした鉛筆をなめるたあと、
『まだ呑めそうどすなぁ、その顔は』と、恵子の陰に隠れている勇作の顔を、
じろりと見上げる。
「あんた。2人を、白川通りのスナック、らんまんへ道案内してあげてや。
ウチも伝票が終り次第、後から行くから。
あ、あんたは呑まんでええで。案内だけしたら帰ってくるんやで。
ウチは恵子に話があるさかい。
あんたは戻ってきて、ここで好きなだけ只酒を呑めばええでしゃろ」
『久しぶりや。たまには2人でとことん呑みましょ、昔のように』
と多恵が恵子に向かって、片目をつぶる。
しぶしぶ立ち上がった市田が、着物の前を掻き合わせて『それじゃ行きますか』と
乱れた頭髪をぼりぼりと掻く。
アブラムシと呼ばれる割に、身に着けている着物は高価だ。
だが長いあいだ着たきりのため、いたるところに不自然な皺が生まれている。
(欲の深いキツネに騙された挙句、会社でも潰したような雰囲気が有る。
本来なら、数十万はする高価な着物だろうが、ここまで着たきりでヨレヨレになると
さすがの価値も地に落ちてくる。
祇園は怖い世界だな。ひとつ間違えば、人生のすべてを根底から失う・・・。
たしかに池田屋の女将、多恵さんも、置屋市松の恵子さんも、
ともに美人で、男をふらりとさせるような色気を、充分なまでに持っている。
だが俺は、絶対こんな女どもなんかに騙されないぞ!)
アブラムシに道案内されながら、勇作が胸の中でこっそりつぶやく。
(41)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら