つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(33)祇園にある伏魔殿

四条通りを渡り終えた市侑が、何事も無かったように着物の裾を整える。
固唾を呑んで見守っていた歩道の上の通行人たちも、『やれやれ』と胸をなでおろす。
やがて、それぞれの目的に向かって歩きはじめていく。
市侑が池田屋を目指して混み合う歩道を、西に向かって歩きはじめる。
歩道には年末の買い物客や、他府県からやって来た観光客たちが溢れている。
市侑と出くわした観光客が、いそいでカメラを取り出した。
先を急ぐだらりの帯の後を追う。
ぽくぽくと歩く市侑の周りにだけぽっかりと、前に進むための空間が開く。
「舞妓は祇園の、天然記念物のようないきものどす。
長年にわたり、祇園の人たちが守り続けてきた祇園の宝どす。
此処に暮らしている人たちは、本能的にそれを理解しているんどす。
ああして歩けば進むための道を開けてくれるし、道路を無理矢理に横断しても
怒りもみせず、大目にみてくれるんどす。
祇園という街は、そんな風にしてお茶屋街で働く女たちを、
300年以上も支えてきたんどす」
「300年の歴史の中に、100メートルを12秒で走る女の子が加わるわけか。
他にも居るのかい。変った経歴を持つ女たちが?」
「いろんな子が祇園に来ますからなぁ。
けど、ただ単に、美しさに憧れてやって来ただけで、成功するわけではありません。
普通の女の子が生き残るのは、まず、無理でっしゃろな。
100メートルを百分の1秒早く走るために、365日休まずに頑張った子や
3歳からバレーを習った子、早くから和風の生活に馴染んできた子、
きわだった特色を持った子だけが、最終的に生き残ります。
やはり。他人よりも何か優れたものを持ち合わせた子だけが、
花街という特殊な世界では、生き残るようです」
「普通の子では、舞妓になるのが難しいということか?。
ずいぶん厳しい選考をするんだね。舞妓になるための面接では」
「いいえ。祇園は決して、やって来る者を拒みません。
軽い気持ちで舞妓になりたいと、全国からたくさんの少女たちがやって来ます。
けどウチらは、営利を追求する個人事業主どす。
チャラチャラとしたアイドルを、育てるプロダクションではありません。
女としての華を磨き、古典芸能を身に着けて、お座敷にやって来る男の人たちへ
夢のひとときを提供するのが、舞妓の仕事どす。
伝統芸能をしっかりと身に着けた本物の女性を、育てあげなければなりません。
歌が歌えてダンスが出来る程度では、お茶屋のお座敷で通用いたしません。
当然のことながら、修行も想像を超えた厳しいものになります。
そういう厳しさを乗り越える、資質を持った子だけを選ぶんどすなぁ。
わたしたちは、面接で」
「なるほど。100メートルを12秒そこそこで走る子は、たしかに根性が有る。
昔は厳しい修行に耐えて、一人前の職人に育ったもんだ。
だがいまは、文句を言えばその場で『辞めます』と会社を去っていく。
後輩に仕事を教えるために敬語を使うなんて、俺に言わせれば愚の骨頂だ。
覚えの悪い奴は、頭を2つ3つぶん殴ってでも教え込む。
それが昔からの、職人の世界だ」
「古いなぁ先輩は。そういうのを、パワーハラスメントと言うんです。
そんなことをしたら訴えられますよ、いまの若い連中から」
日野自動車の一行は、反対側の歩道をぞろぞろ歩いている。
舞妓の後に続いて、まだ緊張気味に歩いて行く一行を椎名がそっと指でさす。
「10人も居れば、いろんな性格の奴が居ます。
しかし最後まで生き残る整備工たちには、いくつかの共通点が有るんです。
誠実な奴。我慢強い奴。負けず嫌いでがむしゃらな奴。
真夏はクーラーの効かないだだっぴろい整備工場の中で、汗と油にまみれる。
寒い冬は、冷気の中で指が凍える
それでも車が好きで、エンジンをいじるのが大好きだというやつが、
俺たちの世界では生き残ります。
好きなだけでは生き残れないのですねぇ。祇園と言う女の世界は」
「これから参る池田屋は、伏魔殿と呼ばれております。
多恵と言う絶世の美女がおります。
しかし、これがまた一筋縄ではまいりません。根っからの悪女どす。
あ・・・多恵と言うのは、ウチと同期の桜どす。
女将をじっくり観察してください。
どういう女なら過酷な花街で生き残れるのか、答えのひとつが
きっと見つかりますから」
(34)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(33)祇園にある伏魔殿

四条通りを渡り終えた市侑が、何事も無かったように着物の裾を整える。
固唾を呑んで見守っていた歩道の上の通行人たちも、『やれやれ』と胸をなでおろす。
やがて、それぞれの目的に向かって歩きはじめていく。
市侑が池田屋を目指して混み合う歩道を、西に向かって歩きはじめる。
歩道には年末の買い物客や、他府県からやって来た観光客たちが溢れている。
市侑と出くわした観光客が、いそいでカメラを取り出した。
先を急ぐだらりの帯の後を追う。
ぽくぽくと歩く市侑の周りにだけぽっかりと、前に進むための空間が開く。
「舞妓は祇園の、天然記念物のようないきものどす。
長年にわたり、祇園の人たちが守り続けてきた祇園の宝どす。
此処に暮らしている人たちは、本能的にそれを理解しているんどす。
ああして歩けば進むための道を開けてくれるし、道路を無理矢理に横断しても
怒りもみせず、大目にみてくれるんどす。
祇園という街は、そんな風にしてお茶屋街で働く女たちを、
300年以上も支えてきたんどす」
「300年の歴史の中に、100メートルを12秒で走る女の子が加わるわけか。
他にも居るのかい。変った経歴を持つ女たちが?」
「いろんな子が祇園に来ますからなぁ。
けど、ただ単に、美しさに憧れてやって来ただけで、成功するわけではありません。
普通の女の子が生き残るのは、まず、無理でっしゃろな。
100メートルを百分の1秒早く走るために、365日休まずに頑張った子や
3歳からバレーを習った子、早くから和風の生活に馴染んできた子、
きわだった特色を持った子だけが、最終的に生き残ります。
やはり。他人よりも何か優れたものを持ち合わせた子だけが、
花街という特殊な世界では、生き残るようです」
「普通の子では、舞妓になるのが難しいということか?。
ずいぶん厳しい選考をするんだね。舞妓になるための面接では」
「いいえ。祇園は決して、やって来る者を拒みません。
軽い気持ちで舞妓になりたいと、全国からたくさんの少女たちがやって来ます。
けどウチらは、営利を追求する個人事業主どす。
チャラチャラとしたアイドルを、育てるプロダクションではありません。
女としての華を磨き、古典芸能を身に着けて、お座敷にやって来る男の人たちへ
夢のひとときを提供するのが、舞妓の仕事どす。
伝統芸能をしっかりと身に着けた本物の女性を、育てあげなければなりません。
歌が歌えてダンスが出来る程度では、お茶屋のお座敷で通用いたしません。
当然のことながら、修行も想像を超えた厳しいものになります。
そういう厳しさを乗り越える、資質を持った子だけを選ぶんどすなぁ。
わたしたちは、面接で」
「なるほど。100メートルを12秒そこそこで走る子は、たしかに根性が有る。
昔は厳しい修行に耐えて、一人前の職人に育ったもんだ。
だがいまは、文句を言えばその場で『辞めます』と会社を去っていく。
後輩に仕事を教えるために敬語を使うなんて、俺に言わせれば愚の骨頂だ。
覚えの悪い奴は、頭を2つ3つぶん殴ってでも教え込む。
それが昔からの、職人の世界だ」
「古いなぁ先輩は。そういうのを、パワーハラスメントと言うんです。
そんなことをしたら訴えられますよ、いまの若い連中から」
日野自動車の一行は、反対側の歩道をぞろぞろ歩いている。
舞妓の後に続いて、まだ緊張気味に歩いて行く一行を椎名がそっと指でさす。
「10人も居れば、いろんな性格の奴が居ます。
しかし最後まで生き残る整備工たちには、いくつかの共通点が有るんです。
誠実な奴。我慢強い奴。負けず嫌いでがむしゃらな奴。
真夏はクーラーの効かないだだっぴろい整備工場の中で、汗と油にまみれる。
寒い冬は、冷気の中で指が凍える
それでも車が好きで、エンジンをいじるのが大好きだというやつが、
俺たちの世界では生き残ります。
好きなだけでは生き残れないのですねぇ。祇園と言う女の世界は」
「これから参る池田屋は、伏魔殿と呼ばれております。
多恵と言う絶世の美女がおります。
しかし、これがまた一筋縄ではまいりません。根っからの悪女どす。
あ・・・多恵と言うのは、ウチと同期の桜どす。
女将をじっくり観察してください。
どういう女なら過酷な花街で生き残れるのか、答えのひとつが
きっと見つかりますから」
(34)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら