つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(42) 三ツ星の朝粥

居間で女将の恵子が、ぼんやりとテレビを眺めている。
頬杖をついたままテレビを見つめている横顔が、いかにも手持無沙汰だ。
やることが無く、退屈し切っているように見える。
年末を迎えた置屋は、いつになく時間がゆっくりと流れていく。
クリスマスまでは慌ただしい日々がつづいていく。
だが暮れの26日を過ぎた頃から潮が引くように、祇園の町が静かになっていく。
池田屋の2階を賑わせた昨夜の芸妓たちも、今日はまったく見当たらない。
置屋に残っているのは、どうやら2階にいる市侑だけらしい。
祇園の芸妓と舞妓は26日を過ぎた頃から、年に一度の長い休暇に入る。
市侑のように晦日まで置屋に残っている子は、珍しい。
昔は地元の少女たちが、祇園の舞妓になった。
だがいまでは日本全国から舞妓にあこがれて、少女たちが集まってくる。
地方からやって来た子たちにしてみれば、長い休みが取れる年末年始だけが、
田舎へ帰省する唯一の機会になる。
だがこの長い休みはお母さんにとって、一番頭が痛い時期になる。
年末年始の休み明け。屋形へ戻ってこない少女たちが居るからだ。
里心が着いてしまった少女たちは、厳しい稽古が待っている京都へ戻ってこない。
年明けには良くあることどす、と、置屋の女将が深い溜息を洩らすことになる。
大晦日に、おことうさんで回る舞妓も少なくなってきた。
帰り際。お礼にもらう福玉を、たくさん下げて街中を歩いていた舞妓の姿は、
いまでは遠い昔の、祇園の風物詩になってしまった感が有る。
義理堅く、大晦日まで置屋に残っているのは、ひょっとしたら滋賀県から来た
もと女子100メートルチャンピオンの市侑だけかもしれない・・・
階段を降りながら勇作が、二日酔いの頭の中でそんなことをつぶやく。
「池田屋の女狐から、瓢亭の朝粥が届きどおす。
おすが時刻はもう、昼の2時。
残念ながら三ツ星の粥も、ころっと冷めてもうたおす。
ミシュランの三つ星とはいえ、冷めてしもたら、何処にかてあるただのお粥どす。
多恵が持ってきてくれたというのに、何時になっても起きてこあらへんんだもの。
勿体あらへんし、タイミングが悪いったら、ありゃしぃへん」
「君が食べてもよかったのに」
「そうはいかしまへん。
夕べの幹事さんのためにと、わざわざ朝早くから多恵が買ってきたものを、
ウチが食べたら、本末転倒どす」
「そうか。多恵さんには、悪いことをした。
冷えたままでもいい。さっそく食べてみょうか、そういえば腹が減った」
瓢亭は、3年続けてミシュランの三ツ星を獲得している京都の老舗料亭だ。
「朝がゆ」は、その昔。祇園で夜遊びしていた旦那衆が朝帰りの時、
芸者さんと連れだって寝ている主人を起こし、「なにか食べさせて」と無理を言い、
粥を作って出させたのが始まりだ。
瓢箪の形をした3つ重ねの鉢に、瓢亭のこだわりがたっぷりと詰まっている。
上段に和え物。中段の白身魚の蒸し物には、もずくの出汁がかかっている。
下段は、精進の炊き合わせが盛り込まれている。
「温めさせおす。市に言いつけて、レンジでチンさせましょう。
それからこちらは別件どす。転んかて、タダでは起きあらへん女狐の多恵どす。
瓢亭の朝粥と一緒に、こんなものも置いていきどした」
恵子が着物の懐から、祝儀袋の束を取り出す。
もう片方から、お茶屋からの請求書が入った分厚い封筒を取り出す。
どさりと置かれた封筒の厚みに、勇作が思わず目を丸くする。
『ずいぶん分厚い封筒だなぁ・・・
お茶屋の請求書といえば、総額だけをさらりと書くのが普通だろう。
さては、桁違いの請求額になったのかな。開けてみるのが怖い厚さだな』
封筒を手にした勇作が、ずしりとした手ごたえに思わず、『まいったなぁ』と
恵子にきずかれないように、そっと苦笑いを浮かべる。
(43)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(42) 三ツ星の朝粥

居間で女将の恵子が、ぼんやりとテレビを眺めている。
頬杖をついたままテレビを見つめている横顔が、いかにも手持無沙汰だ。
やることが無く、退屈し切っているように見える。
年末を迎えた置屋は、いつになく時間がゆっくりと流れていく。
クリスマスまでは慌ただしい日々がつづいていく。
だが暮れの26日を過ぎた頃から潮が引くように、祇園の町が静かになっていく。
池田屋の2階を賑わせた昨夜の芸妓たちも、今日はまったく見当たらない。
置屋に残っているのは、どうやら2階にいる市侑だけらしい。
祇園の芸妓と舞妓は26日を過ぎた頃から、年に一度の長い休暇に入る。
市侑のように晦日まで置屋に残っている子は、珍しい。
昔は地元の少女たちが、祇園の舞妓になった。
だがいまでは日本全国から舞妓にあこがれて、少女たちが集まってくる。
地方からやって来た子たちにしてみれば、長い休みが取れる年末年始だけが、
田舎へ帰省する唯一の機会になる。
だがこの長い休みはお母さんにとって、一番頭が痛い時期になる。
年末年始の休み明け。屋形へ戻ってこない少女たちが居るからだ。
里心が着いてしまった少女たちは、厳しい稽古が待っている京都へ戻ってこない。
年明けには良くあることどす、と、置屋の女将が深い溜息を洩らすことになる。
大晦日に、おことうさんで回る舞妓も少なくなってきた。
帰り際。お礼にもらう福玉を、たくさん下げて街中を歩いていた舞妓の姿は、
いまでは遠い昔の、祇園の風物詩になってしまった感が有る。
義理堅く、大晦日まで置屋に残っているのは、ひょっとしたら滋賀県から来た
もと女子100メートルチャンピオンの市侑だけかもしれない・・・
階段を降りながら勇作が、二日酔いの頭の中でそんなことをつぶやく。
「池田屋の女狐から、瓢亭の朝粥が届きどおす。
おすが時刻はもう、昼の2時。
残念ながら三ツ星の粥も、ころっと冷めてもうたおす。
ミシュランの三つ星とはいえ、冷めてしもたら、何処にかてあるただのお粥どす。
多恵が持ってきてくれたというのに、何時になっても起きてこあらへんんだもの。
勿体あらへんし、タイミングが悪いったら、ありゃしぃへん」
「君が食べてもよかったのに」
「そうはいかしまへん。
夕べの幹事さんのためにと、わざわざ朝早くから多恵が買ってきたものを、
ウチが食べたら、本末転倒どす」
「そうか。多恵さんには、悪いことをした。
冷えたままでもいい。さっそく食べてみょうか、そういえば腹が減った」
瓢亭は、3年続けてミシュランの三ツ星を獲得している京都の老舗料亭だ。
「朝がゆ」は、その昔。祇園で夜遊びしていた旦那衆が朝帰りの時、
芸者さんと連れだって寝ている主人を起こし、「なにか食べさせて」と無理を言い、
粥を作って出させたのが始まりだ。
瓢箪の形をした3つ重ねの鉢に、瓢亭のこだわりがたっぷりと詰まっている。
上段に和え物。中段の白身魚の蒸し物には、もずくの出汁がかかっている。
下段は、精進の炊き合わせが盛り込まれている。
「温めさせおす。市に言いつけて、レンジでチンさせましょう。
それからこちらは別件どす。転んかて、タダでは起きあらへん女狐の多恵どす。
瓢亭の朝粥と一緒に、こんなものも置いていきどした」
恵子が着物の懐から、祝儀袋の束を取り出す。
もう片方から、お茶屋からの請求書が入った分厚い封筒を取り出す。
どさりと置かれた封筒の厚みに、勇作が思わず目を丸くする。
『ずいぶん分厚い封筒だなぁ・・・
お茶屋の請求書といえば、総額だけをさらりと書くのが普通だろう。
さては、桁違いの請求額になったのかな。開けてみるのが怖い厚さだな』
封筒を手にした勇作が、ずしりとした手ごたえに思わず、『まいったなぁ』と
恵子にきずかれないように、そっと苦笑いを浮かべる。
(43)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら