テーマとずれて行くと、始めから思っていてのこのタイトル。少し大げさと承知の上で、思っていることを綴ってみようかと…?
無理と知りつつ…。
昨日、「演劇を見る会」の例会で、栗原小巻主演の「アンナ・カレーニナ」を観劇した。
話の筋が初めから重い。だから、すべてを書ききれないことが自分で分かっているつもりではある。
これは栗原小巻の実兄の加来英治の脚色・演出である。美しい衣装は小巻自身がデザインしたという。
アンナ・カレーニナのお兄さんが浮気をしていることを兄嫁が知って悩んでいることから劇が始まる。 さらに、アンナ自身が若い将校の熱い求愛に負けて、いわゆる不倫関係を結び夫を窮地に追い込み、彼女の悩みが始まる。愛を求めているときは美しさがあるのに、その愛を成就するとどうにもならない苦しみが始まるのだ。アンナは一つの愛を獲得したが、愛している息子と会えなくなったことが、何よりも悲しく悔やむ種となるわけである。
「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」
「私は何も変わっていない。私の中の別の女がアレクセイ・ウロンスキー(青年将校)を好きになった。私の中のもう一人の人間は恐ろしい人間かも知れない。許しは神のご意思だ。」
「望みはありません。あるとすれば終わりがあるだけ…。」
「自分に嘘はつけないわ。愛は強い!」
「生きる意味が分かった。この強い太陽が私を救ってくれる。」
「男は死について語るだけ。女は死についてどうすればいいか知っている。」
「愛は強いし、弱いし、苦しいし、みじめだし……。」
「一度手にしたものは決して離しては駄目よ。」
「人に理性が与えられたのは、不安から逃れるためです。」
以上は暗い客席の中で書きとめていたセリフたちである。まだ他にいくつかあったが、意味や文字が判明できなかったりしたもので、それは止めておこう。
これらはなかなか味わいのある、空想を巡らすきっかけになる言葉たちと思ったので、取り敢えずここにメモを残しておきたくなったというわけである。
昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」では、幼い時からずっと躾、養育を任されていた乳母が、篤姫を島津家の養女として手放す時に、自分のお役目はこれで済んだと思い、はなむけの言葉を贈る。これが、ズ~ンと重く受け止められて素敵な言葉なのである。
「女の道は一本道、ただ前に進むのみ。」 (あちこち余所見をしないで、ひたすらに真と思う道を進みなさい。)との言葉に、胸を打つものがあったし、印象深い言葉であった。
アンナ・カレーニナは、道も二本になり三本にも感じられた。愛の成就?と呼んでいいのか…そこから、彼女の苦悩が始まる。
栗原小巻は熱演であった。一つのセリフを丁寧に演じた。休憩も入っての、2時間50分の緊張感の中で、重くて苦しい人生を演じた。
劇が終わり暗転後、明るくなった舞台に一転する。
すると、軽やかに無邪気な表情で小走りに、躍動感のある姿で小巻が現れる。あんな重苦しい役柄なのに、観客を魅了し続けての熱演の姿と、カーテンコールの挨拶をされる小巻の姿…その役に自分を埋没させ、はたまた、生のままの小巻自身…その二つの立場の姿をダブらせて、演技者としての“小巻”に感動した。
このごろは本を読んでも映画を見ても滅多に涙を落とすことは無くなっていたのに、不覚にも目頭を押さえた。
素晴らしい!! 彼女は一生を演技者にかけてきたのだ。その姿勢を一部分でも触れて見えたことは、私にとっては感動だ。素晴らしい“ときめき”を覚えた。こんな気持ちは、久しぶり!