祖父が漢方医学者であったので、その長男(私にとって伯父)は漢方医学の跡を継いだ。これは伯父の家の客間の軒下に掲げて、この庵のような離れ座敷を「草堂」と呼んでいた。この部屋に数多くの蔵書を並べ大きな床の間には日本画や南画を掛けて、置き床には仏像を並べてお客人を通す自慢のお部屋でもあったように私には感じられていた。
そしてまた、伯父は『草堂茶話』と題して二冊のエッセー集をまた『枇杷の町』などを「医道の日本社」から出している。勿論他にも著書があるのだが、これは伯父の指針も、私心も見えて、弟でもある私の父(内科小児科医)から受ける兄への想いは、厳格で近寄りがたい恐いような存在としてあるように、私には映っていた。だから伯父を理解する手掛かりとしておもしろく読んだものだった。
祖父、伯父、父、従姉、夫の、(私のは別格で戯れの出版の…)本が、その一部だけれど、並んでいる父の本棚である。
昭和の時代にオリンピックが開かれたが、本の前にあるチケットは、戦前開かれるはずだったオリンピックの入場券を記念に置いてある。
当時中国は、日本と国交がなかったころで、ソ連は鉄のカーテンと呼ばれたことに並べて、中国は「竹のカーテン」が引かれていると、謎の多い国という存在であった。
そんな時代に漢方医学を千葉大で教えてもいた関係で、中国へ招待されて飛んでいく前日に、お見送りに行った思い出がある。伯父への為書きも鮮やかに、蒋介石の立派な文字を戴いて軸装にしたものも遺されていた。
離れの奥座敷は、特別な部屋で伯父の趣味の蒐集などが詰まっていた。最近まで従姉がこの部屋をなるべく伯父の生きていた姿が偲べるように、とそのままに遺していた。
このような大きな額を、高く広い天井の、20畳敷き?もっと広いかも知れないこの部屋に掛けてあった。
中村不折の墨絵や、書もここで見つけた。
伯父が生きていたから、こうした物もみな生き生きと威厳をもって、見下ろしていたように思ったが、今は伯父の蔵書のどの本を見ても、絵を見ても…過去の輝きを思い出せる人のみに、その良さを正当に判断できるだけではないのかと想いが及んで寂しい気がした。何人もの死に目にあったであろう伯父の跡をとって東京で医院を開いている従兄は、「一切無」だから、特別な想いでの物は要らないからと、私たちを呼んで整理の一端を担わせてくれた。
TV放送のお宝鑑定団なら? どうなのだろうか?
このような伯父に触れあいをもつ環境のなかで育ったので、少なからず中国に対しては、ちょっと気にかかる存在でもあったのだ。
20年前だったけれど、まだまだ生きてくれると思った父の死は、母にとっても当然ながら大きな寂しさをもたらした。母を慰める気持ちから、親孝行のつもりもあって、それら想いの強い中国へ、子供である私たち姉妹と共に母は中国旅行に同行したのだった。
北京の長安門、紫禁城や万里の長城へ。真っ白い大理石だけの豪華な天壇公園や大きな墓地(ピラミッドのような大きさには敵わないけれど、皇帝関係の人を葬った墓地内部にも入って見学)など。他に上海、杭州方面の風景にも深い思いをもって、1週間かけて中国のほんの一部を回った。
出かけた旅のきっかけは悲しみからだったが、旅自体は幸せな色合いの思い出が、煌めきとトキメキとして残っている。
そんな訳で(?自分でも訳は判らないけれど。)この11日から14日まで、短い中国への旅を、気のあった仲間、幼な友達8人グループを組んで、楽しんできたいと思います。
そして帰ったら、会報「いちよう」37号編集に取り組みますので、皆さん、原稿を送って下さいね Tabutiさん、Katagaiさんの原稿は有難いことに届いております(感謝いっぱいです)。
それでは行ってきま~す。