いちよう:二千和会だより

 会報「いちよう」を通して、人生がさらに豊かに広がるよう「今も青春!」の心がけで楽しく交流しながら散策しましょう。

寒い日でした。

2010年03月11日 | SO-Color

 下見の予定が9日でした。下見のための準備に、案内をしてくださるボランティアをお願いしていました。予定していた9日の天気予報は、寒くて午後からは雪が散らつくかも知れないという悪天候のため、一週間延期ということになりました。

 一週間あとだとボランティアさんは予定が埋まっているとのこと。折角だからと、中山在住の友やその当日参加できないという友達を誘って午前中は何とか持ちそうな予報だったので、小ぢんまりと出かけて見ようと思いました。友達三人は、二つ返事で「行くわ」と。
 一人でもご案内します…と、ボランティアの栞には書いてありますが、勿体ない事ですので、友達をお誘いして良かったと思いました。私は、多分当日は写真の記録などで、腰を落ち着けて説明を聞けないと思うことも心配されますから。

 
青い帽子の方が案内をボランティアをして下さった柴田さん。後期高齢者だとか。
人に接するお仕事で、張り切っていらっしゃるからか若々しい。
  
これは仁王門(赤門)。扁額の書は寛永三筆の一人、本阿弥光悦の筆による。
総門(黒門)は今再建するため取り壊されていました。
中山在住のMTさんは「見慣れてはいるものの初めてご案内戴くわ」…と、熱心に耳傾けておられました。
 
東大の赤門も、ここの赤門も前田利光公ゆかりのものですよ、と。
振り返って参道に目をやると、桜の並木…立派なお花見が出来そうです。
桜のトンネルが素晴らしいでしょうと思われます。
 
前を見れば五重塔の回りも桜が春…花時を待っている様子が見てとれます。

  
徳川家斉(いえなり)の時代に幕府の祈祷所としてよく通われていたという智泉院。
側室お美代の方の実家であり、祈祷するうちに美しいお美代の方を大奥に参内させたか、
お美代の方の実家だから将軍が通ったのかはよく聞いていなかったが、
お美代の方と好い仲になった人がいて…、
幕府のお叱りがあり、そのうちに智泉院が廃れたとか…。当日の説明ではっきりさせて下さい。
梅の花ももう終わりだけれど、そんな話題を語るにふさわしいような花の風情でした。
  

 こちらは遠寿院(おんじゅいん)  鬼子母神を祀ってあります。
 入谷の鬼子母神はここの分院で、中山の方が本院ですよ、との説明がありました。枝垂れ梅が見事に咲き誇っていました。
 因みに鬼子母神の「鬼」の字は角(つの)がない変体の漢字を使っています。
 他人の子供には鬼のような惨いことをする母親をこらしめるため神様が彼女の子供を神隠し?…、気が触れたように参って、反省してからは、全ての子供を大切にする神様のようになったという。そこで特別に「鬼」の字の角を書かないようになったのだそうです。

 遠寿院鬼子母神堂(本院の方にも、鬼子母神が祀られている。)は、明治後期に皇后美智子さまのご実家、正田家が筆頭勧進となり寄進なさって出来たお堂とか。

 遠寿院荒行堂の扁額は富山藩主前田利幹(としつよ)の揮毫。右の写真は荒行堂瑞門。枝垂れ梅の右奥にあります。あのしめ飾りの門です。大荒行の入行(始まり)11月1日と、出行(終わる)2月10日の年2回しか開かないのだそうです。

 

 その門の前には、葵のご紋がついている水盤。江戸時代に徳川将軍家から寄進されたという。
 荒行堂の門が2回しか開かないのだから、修行でここの水を寒い時期に被るのかと思ったがそうではないのかしら? すると、この水鉢は何に使う?

 何しろ沢山の建物やゆかりのお寺の建物が幾つもあり、私の頭は混乱しています。