あけましておめでとうございます。
今月の標語は「命にはかぎりがある だからこそ 生きている今 成すべき事がある」です。
日蓮上人のお言葉に「日蓮幼少の時より仏法を学び候ひしが念願すらく人の寿命は無常也、出る気(息)は入る気(息)を待つことなく風の前の露なお譬えにあらず、賢きも愚きも老いたるも若も定め無き習也、さればまず臨終の事を習ふて後に侘事(たじ)を習ふべし」というのがあります。
そう命には限りがあるのです。だからこそ生きている今を大切にしなければならないということなんですね。
今まさに正月、新しい年を迎え限りある命をどう生かすか計画を立てるチャンスではないでしょうか。
意訳すると、『こうして人の身体を得て生まれて来た事はとても奇跡な事。ましてや仏様の教えを得る事は、類い稀なる奇跡。今こうして生きている間に悟りを得ずして、いつ悟る事が出来ようか?』という事。
私自身、この経文が大好きで、短縮勤行でない限りは必ずこの経文を読誦します。
読んでいると、こうして生きている事、そして仏様の教えに巡り会えた事への歓びが湧き上がってくるのです。
私にとっては、仏様への讃歌の様な存在でもあります。
真宗で読まれる、『白骨の文』も割りと好きです。
『それ、人の浮生なる相をつらつらと観ずるに、凡そ儚き者はこの世の始中終。幻の如く一期なり。されど未だ万歳を得たりという事を聞かず、百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれれ先立つ人はもとの雫、末の露よりも繁しと言えり。されば朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。既に無常の風来たりぬれば、二つの目忽ちに閉じ、一つの息長く絶えぬれば、紅顔空しく変じて桃李の装いを失いぬる時は、六親眷属集まりて嘆き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と成し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間の儚き事は老少不定さかいなれば、誰の人も、後生の大事を心に掛けて、阿弥陀仏と深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。』
この文は、『人はいつか死んで行くもの。それは何時になるかは分からない。
今日は元気でも、明日になれば、青く冷たくなっているかもしれない。
誰も明日の保証など無いのだから、今という時を大切にして、生きている間に、為すべきことを果たしなさい。』というメッセージが込められているのだろうと私は考えています。
これを読んでいて、それを感じるのです。
余談ですが、今年、東京の神社で初詣客をターゲットに『憲法改正の署名運動』が行われていたそうです。東京のみならず、神社庁に所属している神社もやっているかもしれません。
あまりの神社の露骨な姿勢に、嫌気が差し、今後は神社ではなく、寺に初詣に行こうと決めた次第です。元々神社自体、基本的に行かないのですけど。
お寺も神社みたいな事をやり出したら、寺にすらも行かなくなるかもしれません。
今はお寺が頼みの綱です。
お寺さんには、神社の様な真似をせず、しっかりと宗教としての理念を貫いて頑張って貰いたいと切に願っています。
経文の紹介ありがとうございます。
宗派は違ってもやはり同じ仏教、通じるところがあるのですね。
それにしても神社がそういう活動をしていることは知りませんでした。
宗教と政治の関係は歴史的に見てもいろいろな経緯がありますね。古代はともかく過去の治世者による宗教弾圧のすさまじさは宗教側に治世者への配慮を無意識に植え付けさせているのかもしれません。
宗教としての理念を貫く、当たり前のことですが現代においてはなかなか難しいことなのかもしれません。だからこそ襟を正して真摯に取り組まなければならないことだと思います。