昨日行われたジャーナリスト山本美香さんの葬儀が実家のある山梨県都留市で行われました。
テレビで放映されたニュースのなかで気になったことが。
昼頃から行われる葬儀に先立ちその日の朝火葬場に向かう光景を映し出しているとき、「この地域では葬儀前に火葬をする風習がある」と紹介されていました。
山梨では現在多くの地域で葬儀前に火葬をするということが広く行われています。しかしこれは昔から地域で行われている風習ではなく、葬儀が自宅や寺院ではなくホール(斎場)で行うことが増えてきたことに起因します。
宗教的あるいは習俗的な意味があるのではなく、単に葬儀社の都合によって変更されたものです。
ホール葬の場合、葬儀後多くの場合続いてその場所で初七日とお斎が行われます。
葬儀はたいてい午後1時頃から行われるので、もし葬儀後に火葬ということになればそのあとに行われる初七日とお斎は夕方にずれ込んでしまいます。そうするとその日、その場所で別の通夜を執り行うことが難しくなってしまいます。なので、効率よく会場を使うために火葬を葬儀前の午前中に行うように仕向けてきたのです。
葬儀社が施主さんに説明しているところを目撃したことがありますが、「葬儀の前に火葬をするのが決まりです」などと平気で行っているのを見てひどく憤慨した覚えがあります。
仮にちゃんと意味がわかっている施主さんが「葬儀のあとに火葬をするのが当たり前でしょう」と反論すると火葬場が空いていないからと火葬場のせいにする始末。(実際調べてみると火葬場が空いていることがある)
何もわからない施主さんならばそれが当たり前なのかとそのまま受け入れてしまうことが多かったのでしょう。それでだんだん葬儀前に火葬を行うのが正しいことのように一般化されてきただけなのです。
これにはそれを阻止できなかった寺院、僧侶の責任もあります。
また、ニュースでは「告別式が営まれ・・・・」というタイトルで紹介されていました。
ちゃんと菩提寺と思しき僧侶が葬儀を取り仕切っているのに。
葬儀と告別式がごっちゃになってしまっています。
何のために僧侶がいるのか?葬儀とはなんなのかということがわからなくなっているのでしょう。
大雑把に言えば、葬儀とは亡くなった方のために行うもの、告別式とは亡くなった方とお別れをする生きている人間のために行われるもの。告別式だけを行うなら生きている人間が自己満足するだけのものとなってしまいます。
本当にそれでいいんですか?
施餓鬼が終わると、もちろん後片付けを行います。
そして、そのあとは恒例の塔婆立て、施餓鬼法要に出席できなかったお宅の塔婆を各墓地に立てて回る作業です。
これが結構大仕事、というのも暑さのために墓石が焼けるように暑くその中での作業になることと高さのある墓地には登って塔婆を立てなければならないからです。
暑さは涼しい時間帯に行えば良いのですが、問題は高さのある墓地。
子供の頃はどんなに高い墓地でもヒョイと登って軽々塔婆を建てられたのですが、年を取って年々その作業が難しくなってきました。
1箇所や2箇所の墓地なら良いのですが、それ以上になるとだんだん足が上がらなくなってのぼれなくなる、やっとよじ登っても灯篭や墓石に足をぶつけてあざだらけになる、言ってみればちょっとした登山にも等しい感じです。
今年は昨年よりもさらに足が上がらなくなって、来年はどうなることやら。
それにしても、どうしてそんなに墓地を高くするのか?とっても塔婆が立てづらいですよね?
これはバベルの塔なのか?このときばかりは高さのある墓地が恨めしい。
ぜひ皆さんにおすすめしたい!墓地は低いに限ります。高くすると建設費も高額になるし、線香やお花をそなえるのも塔婆を立てるのも年を取ると大変になりますよ。
必ずしも大きいことがいいことではありません、それよりも良いお墓とはいつもお参りが絶えない手入れの行き届いたお墓のことを指すのです。
今日は清運寺の施餓鬼法要、無事終了しました。
朝から暑い日でしたが午前中に法要は終わり、一息ついた午後3時頃からいきなり雨が降ってきました。
これで少しは涼しくなると思ったのですがそうでもなかったですね。
施餓鬼ツアーも明日のZ寺さんを残すのみ、それが終わると一応夏の行事は終了します。
しかしそのあとは、墓地の草取り、秋彼岸の準備、11月にイベント(落語)の準備などに追われます。
願わくば1日ぐらい夏休みが欲しい!
温泉にでも浸かって骨休みしたいものです。
こんなに近くにたくさんの温泉があるのに・・・近くで遠い温泉。
お盆も終わり今日から施餓鬼ツアー後半が始まりました。
久しぶりにあった面々の顔は年齢に比例してかなりぐったり、疲れましたよねお盆。
法要が始まる前の雑談中、お盆のご先祖様をお迎えに来るお墓参りでお供えの花を持ってこない方(花をお墓に供えすることを知らない)がいて腰がぬけそうなくらいびっくりしたと話したところ、そんな人たくさんいるよとある方からコメントをいただきました。
お盆や彼岸の時期になると必ず地元のニュースでもお墓参りの風景を放送していますし、テレビドラマなどでもお墓参りのシーンには必ずお花と線香をお供えしているのに?
今まで清運寺では見たことがなかったので正直驚きました。
また、あるところでご奉仕のお経を上げた時、帰り際にお茶菓子、お弁当、お経のお礼を持たされました。
会場から出た瞬間、一人の老僧が「こういうものは後でお寺に届けに来るもんだ」とポツリ。
確かにおっしゃるとおりです。
でも今時そんなことを言ったらうるさいやつと嫌われることでしょう。
その老僧も決して威張っているわけではなく、作法のことを指摘しただけなのですが。
例えば、玄関に靴を脱いだらきちんと向きを変えて揃えておく、脱ぎっぱなしにしないそういう類のごく当たり前の作法なんですけれど。
日本の美しい作法というのは相手を思いやる心遣いに溢れています、みんなが気持ちよく暮らせるためにできれば残していきたいですね。
8月16日はお盆の最終日、朝はそれぞれの地区の集積場でお盆飾りの収集が行われます。
このあたりの集積所は原山神社、そこでは近隣4ケ寺の僧侶が朝6時から9時まで読経を行います。
清運寺もその中に入ってます。
自治会の方がちゃんと施餓鬼棚をしつらえて僧侶の読経もあるので、近隣だけでなく遠くは双葉町の方からもこられるそうで、毎年千人くらいが訪れるそうです。
昔は盆が終わるとご先祖にお帰りいただく儀式いわゆる精霊ながしをおしょうろさんと呼ぶ風習があったのですが、現在ではこの集積場に盆飾りを納めに行くことをおしょうろさんと呼んでいます。
そして、夜は荒川での灯篭流し
灯篭流しは午後7時から、でもその前に灯篭を流す人の長い行列が
この桟橋から灯篭を流します。
いよいよ灯篭流しの開始
法要も行われます。
花火も上がり始めました。
灯篭を流したあとはお線香を立てて
祭壇にお参りします。
灯篭流しの親子ツーショット
最後は花火ナイヤガラの滝
ブログに更新するのは最近家庭菜園のことばかりですが、ちゃんと仕事もしています。
もうすぐお盆。13日のお墓参りに続いて14、15日は棚経に回ります。
最近はあまり朝早いのも困ると言われるし、都合があるので日にち指定、時間指定をされることもあります。
そんな中でなんとかスケジュールを組んで各家庭を回るのですが、なんと今回棚経の時に買い忘れたお供えのお餅(このあたりではお供えに安倍川餅をお供えすることがある)を買ってきてほしいというリクエストがありました。
本人としてみれば本当にこまっているので頼んで来るのですが、タイトなスケジュールの中ではかなり厄介なお願いです。
その方は一人暮らしで足も痛いのでいつも買い物はヘルパーさんに頼んでいるそうです。しかし、今回頼み忘れたので買ってきてほしいということなのです。
そういえば、この間お盆にお参りに行けないのでお布施を今すぐ取りに来て欲しい、ついでにまだお昼を食べていないのでパンを買ってきてほしいというお年寄りのリクエストもあったっけ。
ほかにも霊園墓地でお経を上げて欲しいので霊園まできて欲しい、その際途中に家があるのでそこまで迎えに来て欲しいということもありました。ほとんどタクシー替わりです。送迎までしてもお布施はタクシー代にも満たないということも。
そういう話を聞くとさぞかし孤独で体の悪いかわいそうなお年寄りなのではと想像しがちですが、こういう方には特徴があって、まずお金には困っていないのでヘルパーさんやらなんやらたくさんの人に色々なことを頼むのが当たり前の生活になっている一人暮らしのお年寄りで同居はしていないものの子供も孫もいるという方です。足腰が悪くひとりで外出するのが難しいというのも特徴の一つです。
おそらくお子さんたちは自分の親がそういう状態になっていることに気がつかないんでしょうね。それとも気がついていても見て見ぬふりをしているのかもしれません。親子といえば一番強い絆で結ばれているはずなのにその絆がぼろぼろに崩れている寒々しさを感じます。
逆に本当に生活に困っている方はそんなリクエストをすることもなく遠慮がちというのが定説です。
お寺のお坊さんというと偉そうに威張っているというイメージを持たれている方もあるかもしれませんが、こんなこともあるんですよ。
それともこういう経験をするのは私だけでしょうか?威厳がないからなんですかね。
困っている方の手助けをさせていただけること、気軽に頼っていただけることはそれはそれでありがたいことではあるのですが、こういう形のお手伝いで良いのか、本来はもっと違う形でお手伝いすることがあるのではないかという思いもあります。
あまりにも時代の変化が激しくて価値観の変化に対応していかれないだけかもしれませんが。
どう考えるべきなのか・・・悩むところです。