9月4日の初日に続き、昨日11日もアイーダの千秋楽を観に行ってきました。
今回の日本公演ではダブルキャストなので、その違いを体験したかったんですね。(本当はもうひとつの演目ドンカルロを観たかったのですが、チケットがとれなかったので)
今回も4日と同様3階後部席の正面席です。条件としてはほとんど同じになります。
さて、4日とはどう違っていたのか、 まずは上演時間と休憩時間、11日の方が短くなっていました。
こういうことは普通少ないんじゃないかと思うのですが。
一幕は5分、1回目の休憩は5分、3幕は5分、2回目の休憩は5分、4幕は5分と全体で25分も時間が短縮されていました。
配役はというと、主な配役のアイーダ役のヴィオレッタ・ウルマーナ、ランフィス役のジョルジョ・ジュゼッピーノ、アモナズロ役のホアン・ポンスは変わらず。
アムネリス役はエカテリーナ・グバノヴァからアンナ・スミルノヴァに、エジプト王役がカルロ・チーニからマルコ・スポッティ、ラダメス役がヨハン・ポータからスチュアート・ニールに変更されていました。
しかも、マルコ・スポッティ、スチュアート・ニールは当初発表されていたダブルキャストではなく代役です。(エカテリーナ・グバノヴァも代役でしたが)
第一幕のラダメスが歌う“清きアイーダ”が終わった後、客席からはバラパラと拍手が、ただこの拍手はブラボーという意味の拍手ではなく、無事に歌い終えたことに対しての安堵の拍手だったような気がします。 (4,6日のヨハン・ボータがうまく歌えなかったので、皆不安に思っていたからでしょう。)
そしてその後のラダメス、アムネリス、アイーダの三重奏では、スチュアート・ニールは完全に女性陣に声負けしてしまっています。
清きアイーダでの失敗はあったものの、それ以外ではヨハン・ボータの方に完全に軍配が上がります。
その後も、スチュアート・ニール自体はそれほど悪くはないのですが、やはり女性陣と対等に渡り合うことはなく(組み合わせの問題かもしれませんが)、迫力と声量に欠けたちょっと残念なラダメスになってしまいました。
この人はドンカルロでもタイトルロールのダブルキャストに配役されているのですが、こちらはどうなんでしょうね。
エジプト王は4日のカルロ・チーニの方が威厳があって声の迫力もあり断然よかったです。
アイーダ役のヴィオレッタ・ウルマーナ アモナズロ役のホアン・ボンスは演じ慣れているだけあって安定感があって同日とも良かったです。
特に3幕の場面での父が娘に詰め寄る場面は迫力がありました。
11日の配役で特によく感じられたのはアムネリス役のアンナ・スミルノヴァです。
4日にピンチヒッターとして急遽出演したエカテリーナ・グバノヴァも悪くはなかったのですが、やはり遠慮がちなおとなしいアムネリスになってしまっていました。
11日のスミルノヴァのアムネリスは、登場した瞬間からエジプト王女としての威厳と風格が出ていました。
そもそも、このアイーダという話は、エジプトとエチオピアとの戦争時の話です。
そのなかで、勝ったエジプト王女と、負けて奴隷となったエチオピア王女が、エジプトの勇者ラダメスをめぐって恋のバトルを繰り広げる物語ですから、絶対的優位に立っているアムネリスに迫力がなくては話になりません。
その威厳があってこそ、4幕でアイーダに負け、ラダメスを死に追いやるアムネリスの悲嘆と後悔がきわだつのです。
オーケストラの方は、4日よりも若干音のボリュームの幅がでていたようですし、ノリも良かったような気がします。
4日もそう思いましたが、やっぱり出だしの弱音はきれいです。
ぜひこの音で椿姫も聞いてみたいものです。
1回目の休憩時間にオーケストラピットをのぞいてみると、ビオラの人でしょうか、ずっと楽器を手にしたままじっと、ピットをのぞいている観客たちを見ている楽団員がいました。
何をするでもなくじっとこちらを見つめているんですが、どういう意味があったのでしょう。休むのなら楽屋のほうがゆっくりできるのに。
そうかとおもうと、こんどは2回目の休憩時間にオーケストラピットの中では、コントラバスの数人とハープの2人が音合わせをしていました。
そういう光景は良く目にすることがあるのですが、そのそばでは一人の団員が観客となにやらイタリヤ語で会話をしています。
別の席ではパンをかじっている団員や本を読んでいる団員もいます。
なかなかオーケストラピットで飲食をしたり、本を読んだりする光景を目にすることはありません。よっぽど楽屋が狭いのでしょうか。
演出、舞台装置については4日と感想はかわりませんが、バレエの振り付けに関しては、今回あらためて観て感想が変わりました。
2幕のアムネリスの部屋での子供たちの踊り、飛んだり跳ねたりでものすごい運動量です。
さぞかし練習は大変だったろうと思います。
そして、凱旋の場面でのバレエシーン、よく見ると、子供たちの踊りとの統一感もあり、衣装に取り付けられた飾りがダンサーがステップを踏むたびにジャラジャラ音を立てて、それ自体が音楽になっているところが面白かったですね。
確か、昔、山岸涼子のバレエマンガ「アラベスク」の中で、バレエコンクールで主人公が踊っている最中、ピアノ奏者が伴奏をやめてしまい、審査のときに、そのことについて、音楽を伴わない踊りはバレエとはいえないという否定的な審査員たちが多い中で、一人の審査員がダンサーの足首につけた鎖がダンサーの動きに合わせて音をたてていたではないか、あれも立派な音楽だと言って優勝させてしまうシーンがあったと記憶しているのですが、それを思い出させられました。
そして、踊りの総体としては、振り付け師ワシリーエフの古巣、ボリショイバレエ団の十八番「スパルタカス」を彷彿とさせる力強い踊りであったと思います。
そのことが、逆に今まで観てきたアイーダのバレエシーンと傾向が異なるため、最初観たときに違和感を覚えたのかもしれません。
もしかしたら、これからはこういう力強い踊り(たぶん今回は奴隷たちに踊らせているという設定かと思われるんですが)がスタンダードになっていくかもしれないなという気がします。
カーテンコールは4日とは違い、普通のカーテンコールでした。
スチュワート・ニールに対しても若干ブラボーの声がかかっていましたが、4日と同様、全体的にブラボーの声もほとんどなく、スタンディングオベーションもなく、あっさりしたものでした。
ミラノスカラ座なんだから、これくらいのレベルは当たり前ということなのでしょうか。
なかなか同じ演目を2回も観るという機会は少ないので、今回はいい経験をさせてもらいました。(ドン・カルロを観れなかったのは残念ですけれど)
しかし、生演奏のライブというのは、その日によってコンディションも違うし、キャストが変われば、印象もだいぶ違ってしまいます。
ということは、同じ公演でも、どの日、どのキャストで観るかで評価が変わってしまうとことでもあります。
それぞれ観る人によって好みも感じ方も違いますから、その中で、最高に感動できる公演にめぐり合うことは、ほとんど運頼みということになるのかもしれません。
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