昨日、甲府市の火葬場からの帰り、藤川沿いの道で交通事故にあった子猫に出くわした。
おそらく私の前を走っていた車がはねたのだろう。
その車はいったん停止した後立ち去ってしまい、道の真ん中に横たわる子猫をその場に居合わせた帰宅途中の自転車に乗った学生さんたちがどうしていいかわからず固まって見つめている。
私もすぐに車を止めて駆け寄ったところ、子猫はもうすでに息のない状態。
このままでは後続、あるいは対向車にひかれてしまう、ほとんど助かる見込みがないとはいえそのまま見過ごすことはできず、仕事着の衣のまま子猫を車に乗せて知り合いの動物病院へ。
病院に付いた時点で素人目にも助からないだろうことは見て取れる、しかし一縷の望みも捨てきれず子猫を動物病院に託して、そのまま仕事に戻った。
仕事が終わって動物病院に連絡したところやはり助からなかったとのこと。
野生とはいわないまでも、完全に人間に飼育されていない動物が成体になるまで生き残るのはなんと難しいことか。
子猫は三、四か月ぐらいで手足の部分だけが白く体は黒色、栄養状態は悪くはなさそうだがおそらく野良猫もしくは地域猫だろう。
傷一つなくまるで眠っているようなきれいな体だった。
獣医さんからはこのまま遺骸は市役所に引き取ってもらいましょうかといわれたのだが、それではあまりにかわいそうなので引き取ってこちらで供養することにした。
敷地の片隅に穴を掘り体に直接土がからないようにきれいなもので包んでカリカリとレトルトパウチの餌を入れ埋葬し、花を線香を供えお経を読んで弔った。
たとえ見ず知らずの動物とはいえ、ちゃんと供養しないと自分自身が納得できないという思いもある。
そう思うと、最近はやりの直葬を思い出す。
ただ火葬するだけなら遺体の処理でしかない。
そこに死者を悼む気持ちはあるのだろうか。
ちゃんと浄土へ送ってあげるのが人としての務めではないだろうかと。
そして、あの時どうしたらいいのかなすすべもなく固まって子猫を見つめていた生徒さんたち、きっと彼らは子猫をひいて逃げてしまった人への怒りとなにもできなかった自分に対してのふがいなさを感じていたのではないだろうか。
望むらくはその経験を踏まえて今度はあるいは大人になった時に率先して命を救うことが実践できる人になってほしい。
悼む気持ち、弔う気持ちを持ってほしい。
今月の標語は「世の中に 変わらぬものはない その悲しみも 必ず消えてゆく」です。
諸行無常、すべての物事は同じところに留まることなく常に移り変わっていく。
とはいうものの悲しみは時がたてば癒えるのか、あるいは必ず消えてゆくものだろうか。
あまりにも深い悲しみはそう簡単に消えるものではないだろう。
場合によっては一生涯その悲しみと付き合うことになるかもしれない。
しかし、その悲しみの在り様は変化していく。
悲しみの在り様が変化することによって悲しみとの付き合い方も変わっていくのだろう。
だからこそ、前を向いて生きていけるのかもしれない。